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THINK ABOUT SOMETHING.

『継続は力なり』の理論的証明

『継続は力なり』を理論的に証明しようと思う。先ず東にプランク長進んだ時の東方向への移動量は、元の地点よりプランク長。この移動線を北東ないしは南東にずらしていくと、東方向への移動量は徐々に狭くなり、北ないしは南のゼロをピークに無限に細分化することができる。これが世界の無限性原理。

 

全ての力は無限性原理により、独自の系を成し、一致することはあり得ない。近似はあり得るが、その僅かな隔たりがバタフライエフェクトの如く無限大の差異を指数関数的に形成していく。ローレンツ方程式の軌跡は継続することで差異を増幅するが、その爆発が力ならば、継続は力なりは理論的に正しい。

 

付け加えれば例えトップクラスでも同一性は力ではなく、同一化しないことが力なのだ。それは無限性原理によって保証され、バタフライエフェクトによって壮大に増幅される。即ち『隔たり』であり、究極的には――無限大に増幅された最果てでは――『絶対性』であり、これこそを僕は『力』と定義する。

 

結局のところどう足掻いても『継続は力なり』なのだ。この絶対性に向かわざるを得ない人間の原理を『絶対性原理』と呼ぶとして、しかしこの原理はそれ自体ではまだまだ不完全である。何故なら熱量とカオスの比例関係と、爆発したものの倫理を全く想定していないからで、爆発が大罪では意味がない訳だ。

 

独自の思想で独自の系を成し、一つの力を継続すること。途轍もない何ものかへの帰結。代替えの利かない圧倒的到達。そう、芸術は必ず爆発する。但し蝶だけの世界では竜巻が限界としても、人間社会では原爆も生み出す訳で、系の熱量はカオスと比例関係にあることを先ず以って知るべき。

 

但しアートの場合、この辺の問題はある程度回避できる。三島は「どんな非道徳な芸術だって認める」と言ったが、現実で実現できないことはアートで昇華すればいいし、従って熱量は可能な限り大きく、言い換えれば続けられる程度に最大に取り、爆発はアートに変換すればいいのである。

 

継続は力なりの言い換え――絶対性原理――は、ストレンジアトラクターの性質――差異の指数関数的増幅――を利用したものだから、全く以って予測ができないし、だからこそその帰結は芸術的に価値がある訳だ。随分昔にも僕は言ったが、頭の中で事前に完成されたアートは総じてつまらないのである。

 

今日のつぶやきはあんまり独創的な結論にならなかったが、万人万有のストレンジアトラクターを理想的に運用する方法論が添えられていれば、もう少し面白い話になったに違いない。ちなみに『熱量』と『情熱』は全くの別物で、精神的な運動量のことを指すから、むしろ負荷の高さを示すものだと思う。

 

もしかしたらその辺にヒントがあるかもしれない。と思って昔のつぶやきを探してみたら、過去にこういう式を僕は作っていた。『自動的代謝-生理的代謝=当人の個人的代謝-万人の個人的代謝=当人のエロス』というもので、このエロスの部分に最大の熱量をかければいいのかもしれないな。

 

ところでこの『当人の個人的代謝』の部分、即ち生理的代謝以外の自動的代謝の部分(差分)は、予め備わっているものではなく、自己開拓していくものだという直観がある。この差分がめちゃくちゃ狭い人を僕は知っているし、しかしそれが才能の枯渇だとは思わないし、開拓不足という印象なのだ。

ヴァンパイア理論

『もし、一が神であるならば、無限大は、悪魔である』という言葉がある。シモーヌ・ヴェイユの言葉だが、この一という数字が神ならば、この数字は死んでいる。これは一そのものが無限だからであり、無限に確定できない彼岸がそれならば、神は死んでいる。

 

しかし人はこのデッドナンバーを永遠に求める。最小単位で言えば恋人。二人の愛を一つにあらしめんとする。しかし吉本隆明が言うように円満な家庭など幻想だし、両者間でこの見え方には必ず差異があり、そこから綻んでいくのが妥当。1+1=2すら幻想のこの世界で、確定できるものなど何もない。

 

哲学的に無知に近いので間違ってるかもしれないが、反対に最大単位は『我思う、ゆえに我あり』だろう。これは万人万有の確実性を表す哲学史上最大のトピックで、しかし光の速度が無限に細分化できるように、『ある』という言葉の定義も無限に細分化できるなら、やはり一つにはならない。

 

とてつもなくいい線行ってるのだが、言葉の曖昧性によって成立する欺瞞なのは間違いない。即ち二人以上の間で成立する一つというものは、厳密性を無限に高めれば存在し得ない訳で、一人一人の感じた一つ一つがただバラバラに存在し、それらは総じて同じ一つにはならないのだ。

 

それでも僕たちはこのデッドナンバー――『1』という名の神――を強く希求する。学問の世界は総じてそれを目指しているし、この不可能性への永遠の接近という構図はオリンピックと全く同じ。『理論上完璧なもの』と『現実に限界なもの』との隔たりを埋めていくのがそれで、しかし神など不可能なのだ。

 

しかし不可能だからと言ってそこから離れるとどうなるか。ドストエフスキーの言うように『神がいなければ全てが許される』のであり、シモーヌ・ヴェイユ的に言えば一から最も遠い無限大――偶然性という名の悪魔――に行き着くだけなのだ。

 

『1』というデッドナンバーはつまり、デッドゆえにアライブであり、不滅であり、それが三島的なフォルムになるのである。寺山が三島との対談で見劣りしていたのはその点で、アライブゆえにデッドという逆説を見抜けなかったところにある。僕はアンフォルメルには何の期待もしていないからね。

 

神は最大の必然性である。それゆえに数字で表すならば、『1』でしかあり得ない。二つ以上あればその時点で必然性は分散され、最大の必然性ではなくなる。しかし悪魔にその心配は要らない。必然性がなくなればなくなるほど完成されるからで、ゆえに数字で表すならば、『無限大』でしかあり得ない。

 

僕たちが無意識的に神を希求するのは、この辺が関係しているように思う。虚無とか自由の話にも結び付くと思う。恋愛が人を強くしたりすることがあるのは、この原理に則った場合のみ。そしてそれが適った場合のみ。限りなく必然的になろうとする行為は、不可能ゆえに全て美しいのである。

 

つまり悪魔は逆説的に、枷だらけで、神もまた逆説的に、究極の自由なのだ。アンチテーゼが全滅する絶対の世界、それが『神の領域』であり、全ての振る舞いが無因果なのに対し、悪魔は神を原因に据えないといけないから、その究極因によって必然的に雁字搦めに陥るのである。

 

無因果の聖なる振る舞いとはつまり、究極的には全てを照らす光であり、光速のような限界もないものであり、その究極因を前提に反対の領域=即ち影に生きようとしても、それはほとんど成り立たないということなのだ。だから僕は素直に神を目指すし、アングラは昔から苦手なのだ。

 

最高に必然的なものは最高に美しく、最高に自由なのだ。もちろん松本人志を面白いと感じない人も、キース・ジャレットを素晴らしいと感じない人もいるだろう。しかしそこを叩いてもその影の領域は狭いし、理論上完璧なものの不可能性に寄生してても仕方ないのだ。

 

光――楽園にあらんことを――は、一意を目指す最たるこの怪物は、永遠に一意に確定することなく、無限に膨張する。万人万有の第一原因として、その究極の帰結に際限なく接近する。してみれば悪魔はより遠くへ向かい、神はその完全性を、悪魔はその虚構性を高めていく性善説ができあがるのだ。

タイムパフォーマンス

イデアというのは大別して二つあると思う。一つは『アップデート』、一つは『イノベーション』だ。アップデートは既存のモノを理想化する行為であり、サブカテゴリーには自動化、無線化、小型化、円滑化、高速化、複合化、補完化、効率化、一般化、簡易化、多様化などがある(まだまだあると思う)。

 

要は既存のモノの伸び代を詰めていくということだが(サブカテゴリーはその形式)、後半になるに連れ同じ伸び幅を得るのに必要な想像量は指数関数的に高くなっていく。1から2に引き上げるのと、8から9に引き上げるのでは、同じ伸び幅でも要求されるアイデアレベルが全然変わってくる訳だ。

 

0から始まったものの9が理想点として、10、即ち位の上がる瞬間がある。それが『イノベーション』だ。もちろんこれは9から10に到るケースも、例えば5から段階飛ばしに10や100に行くケース(例えば技術的特異点)もあるだろう。そしてこの位が上がることを僕は『斜め上』と定義する。

 

0から9までは純粋な『上』のアップデードだが、10は桁数が増えて『斜め上』がドドンと現れるからだ。そしてこれは指数関数的に最も負荷の掛かるポイント(9→10)に相当し、そこから先はまた負荷が初期化される(0から始まる)。しかし10には必ずしも9から到る訳ではないのが面白いところ。

 

その原因にはこういうものが考えられる。位の上がり目が負荷を初期化させるなら、それは単純なアップデートの繰り返しからは中々そうならないというもので、アップデートすればするほど負荷は指数関数的に高くなっていく原則が上述の通りある。従ってその指数関数を無視する思考が要求される訳だ。

 

それがイノベーションタイプの思考、『足し算』ではなく『掛け算』、上述したサブカテゴリーを複数横断した『組み合わせの妙』であり、その組み合わせ自体が『新たなるモノ』を形成する場合、負荷がなくなるのは当たり前のことなのだ。新たなるモノ=理想なき原石=理想化し放題という訳だ。

 

従って9まではアップデートタイプでもイノベーションタイプでも到達できるが、9→10にしろ2→10にしろ、10に到る時は必ずイノベーションタイプの思考が要求される。そしてこのタイプの思考は9に到るまでのアップデートタイプの思考を先行すること(先に9を過ぎること)もあるのである。

 

要は既存のモノが別モノになり、そこから新たな理想化の可能性が一気に開けるようなもの、それがイノベーションだ。そしてこのイノベーションは当然ハードウェアに多い。何故なら上述したサブカテゴリーを容易に横断できるからだ。家電が高くても売れる、というのはつまりこういうことなんだろう。

 

アップデートは課題設定をしっかりやり、時間をかければ必ずできるものだと思う。課題そのものの想像力、方法論のセンスなどは違えど、時間をかけて解けない謎はあんまりない。翻ってイノベーションは組み合わせの妙技だから、「これとそれで多分こうだ!」というような錬金術的な推理が要求される。

 

ハードウェアの錬金術師と言えばAppleが思い浮かぶ。彼らはアップデーターでありイノベーターでもあり、その推理力(直観力の方が正確か)は一線を画してるような気がする。その力の正体は結局『想像力』と『センス』だと思うし、ならばアップデーターからイノベーターになることは可能なのだ。

 

『想像力×センス=タイムパフォーマンス』とすれば、想像力とセンスを磨けば『時間をかければ解けない謎はあまりない』の言葉にかけて、ほとんどの謎は解けるようになる。これは僕の信仰。

家庭用カラオケのアイディア

できるかどうか分からないけど、ノイズキャンセリングの仕組みを利用し、マイクが拾った歌声の逆位相を発生させ、歌声をリアルタイムで消音し、歌い手と聞き手はオーバーヘッドタイプのヘッドフォンを着用。そこにマイクから無線で歌声を飛ばせば、家庭内カラオケができるんじゃないかとふと思った。

 

PS3JOYSOUND DIVEとか楽しいと思うんだけど、家で大きな声は出せないのが現実だし、マンションだと尚更。このサイトを見てると点音源でも同位置にあれば打消しが可能とあるし、マイクとの距離が超近距離なら実現できないかな。

http://www.cepstrum.co.jp/products/anckit/ancbasic.html

中間層最強説

今日の早朝久々にピグをやった。そこでいろいろ話してたんだけど、一番モテるのは普通の男だよということを相手が言ってきた。よう分からんけど、確かにそんな気もした。

 

これは以前考えてたことだけど、例えばファッション。裕福層と、中間層と、貧困層があるとして、裕福層は垂れ流し的に服を買えるから、いつまで経っても組み合わせの妙技というか、そういう経験値が貯まらない。とりあえず買うだけ買ってどれかが組み合わせ的にハマればラッキー、程度の感覚だからだ。

 

だから数十着服を買って、一つか二つ奇跡の組み合わせがあれば上出来というレベルに留まる。これが中間層だと、金はある程度あるけど無限ではないので、その範囲内の最大効率で立ち回ろうとする。一着単位の良し悪しではなく、組み合わせとしてどれが活きてくるかについての経験値を、どんどん貯める。

 

貧困層になると金銭的な自由度がかなり低いから、経験値が『貯まらない』というよりそもそも『貯められない』。レベルアップのスピードが失速していって自然消滅するか、実利主義的な方向に偏ってオプション的なものを諦めるか、この二択に終わるのが大体の相場だと思う(全てではないだろうけど)。

 

この観点で言えば『適度に手の届くものに手を出す』というか、そういう中間層的な人達が結局最強という話になる。余裕で手が届いてもダメ、全く手が届かなくてもダメという中間でこそ、経験値が貯まっていくものなのだ。その中間層にこそ非DQ的にしてFF的な『大衆ヒーロー』が育まれるのだ。

 

これを創作に当てはめると、時間は金に相当するのだと思う。時間が有り余っていてもそこにあぐらをかいて経験値が貯まらないし、雀の涙ほどしかなくてもモチベーションは失せる。適度に時間があってこそそれを最大効率で運用しようとする意志が働くから、コストパフォーマンスは最大化されるのだ。

 

僕の場合時間が有り余ってた頃の作品が凄く好きだけど、多分、あれは今でこそ乗り越えられるものだと思っている。適度に時間があって、しかし寿命があって、だからこそ最大効率で運用しようとするから、オーバーに言えば一瞬一瞬が全身全霊となり、細部の一つ一つが考えられ得る自己ベストになる。

 

ごくごく中間的な、言い換えれば平凡な人間にモチベーションと継続が揃えば、それだけで凄いことになっていく。何も成功者だけが凄い訳じゃないんだし、周りを見渡せば人間的に凄い人は沢山いるけど、彼らはみなこの原理に則っているように僕は感じる。分をわきまえて何かを手に届かせんとしている。

 

平凡な人間が可能的な最大値を取ろうとする活動こそ、フォルムというか、オリンピックというか、不滅に輝くのだ。実際のオリンピックの場合、時間は取れれば取れるほど有利なのは間違いないけど、それはモチベーションがかなり統一された土壌だからで、しかし現実生活でそういうことはほとんどない。

 

だから平凡なスペックこそが強くなり、愛されていくのだと思う。話を戻すとそういう意味で、普通の男が一番モテるというのは一理ある。そのステレオタイプ的なイメージとして、一番理に適うのが糸井重里。あの人は強いし、周りからも愛されてるけど、根は平凡だと個人的には思います。

ゲームの前提

ゲームについて思ったのだけど、最近のゲーム製作はその初動で知らず知らずの内に『前提』を置いているのではないか。ある意味では当然の行為だけど、誰が右アナログスティックをカメラの視点切り替えと決め付けたのか。誰がZ注目のような対象注目を踏襲しなきゃならんと言ったのか。

 

FPSに顕著なことだけど、ゲームルールの基本的な前提を長年いじらず、固定化している。これはユーザーがゲーム体験に即座に入り込めるという有意義さはあるけど、ゲーム内容そのものの進化を殺すのではないか。映像とか音楽じゃなく、システムから来るブランクページがもう開かれないのではないか。

 

何でこんなどうでもいいことをつぶやいてるかと言うと、ゲームの黎明期に何故あれだけゲームにハマれたのだろうということを考えたからだ。あの頃は前提も何もあったもんじゃない時代だったから、全てが全てブランクページで、それはクリエイターの側だけでなく、ユーザーの側もそうだったのだ。

 

だからAボタンでジャンプするマリオに驚いたし、Bボタン押しっぱで走るマリオに時めいた。これはAが何を意味するかもBが何を意味するかも自分の中で全く定義されていなかったから当然と言えば当然で、しかしこれがゲームプレイの円滑化の為に共有的に前提化されていくと、驚きがなくなるのも当然。

 

もちろんこういう諸々の前提は試行錯誤の末に築かれていく必然的なものだから、そこを無理に翻す必然性もまたないのだけど、しかし前提の共有数が増えてくるとゲーム体験が見え透いてくるのも事実。前提を置くってことは外さないようにするってことだけど、それ自体が外してしまってるっていうね。

 

僕のゲーム体験はFCのマリオからだけど、そこからSFCまでは前提となる部分がいい意味で『曖昧』だったんだよね。最近のFPSみたいに右へ習えではなく、ある程度の重複はあってもあちこちで違う独自の定義を与えてたように思う。もちろん2D時代という時代性も加味されるべきだとは思うけど。

 

そして3D時代になり、アクションの初プレイはまた64のマリオで、これも興奮しまくった。FC~SFCまでに築いていった前提が一旦ゼロからやり直しになったから、初代マリオと同じ興奮が蘇ったのだ。今みたいにカメラを動かすことの当たり前さもなかったし、ただそれだけでも心が踊ったものだ。

 

ゼルダのZ注目(厳密には起源を遡れるそうだが)にしたってそこから生じる体験の新規性があったし、これは前提の低いところ――極端に言えば何もないところ――で生じさせた方が感動も間違いなく大きくなる。前提に次ぐ前提の上で新規性を開拓しても、ほとんど見え透いてしまっている訳だ。

 

前提数が多いということは、その上で組まれるゲーム性も制限され、発想が似通ってくるということだ。自由度がなくなり、その上で構成されたゲーム性はプレイヤーにも容易に読まれる訳だ。それが64の時代は本当に読めなかったし、FC~SFCという2D黄金期のRebootがそこにはあった。

 

FC~SFCって完成して終わっていった(2Dの)ゲーム史というか、ベルセルクの蝕で連載終了みたいな『前提が確定するかしないかで終わる』という理想を体現していた。それが3DでRebootされ、しかし今回は蝕を通過し、グダグダの連載になってしまってるのが現状のように思う。

 

だからPS2辺りがどこまで行っても僕のゲームの潮時で、今はそこに到るまでのゲーム資産の前提――言い換えればこうしておけば大体外さない――を数多くのゲームが踏襲している。でもそれは逆に読むといい意味でも外さないということだから、何の驚きも起こらない。見渡せば佳作ばかりの時代なのだ。

 

FC~SFC時代のようなワクワクが今ない理由は、結局『前提のないところから始める』という要素が今のゲームに欠けているからだし、ゲーマーの夢が終わる=あらゆる前提が完成されてしまう=何もかもにデジャヴを感じてしまうということなのかもしれない。

 

前提が完成されていき、ゲームが洗練されていき、良作ばかりが日常の時代が夢の終わりだとは夢にも思わなかったけど、ハードウェアレベルではもう同じようなスペックにしかならなくなりつつあるし、ソフトウェアレベルで大神みたいなゲームがもっと出ればいい。あれにはマリオみたいな感動があった。

 

そう考えるとゲームへの夢が醒めてるのって、ハードスペック云々じゃないかもしれない。ハードスペックが向上することで夢が具現化されていき、そのことで夢が枯渇していくということかと最初は思ったが、というかそれもあるのだが、スペックそのものはゲームの自由度を上げる筈なのだ。

 

要はソフトウェアに魅力がなくなってるんだろうな。FC~SFCの時代ってまだまだ手探りだったから、同じところにゲーム性が集中しなかったし、それがクソゲーに振れることも、超傑作に振り切れることもあった。あのドキドキ感が今はもう全くないし、全体として安全牌志向。

 

要は終わりが始まり、始まりを繰り返さなくなったのだ。トゥーンレンダリングとかの場合は変わってくるけど、例えばフォトリアルを目指した場合、これは『実写かCGか判別不能なレベル』という終着点があり、それが即ち『完成を志向する』ということだ。そこを目指した時点で『終わっていく』訳だ。

 

これはグラフィックに限った話だけど、ゲームデザインでもそれはある。FPS全般もそうだし、シリーズタイトルもそうだけど、ゲームの完成に向かって伸び代がなくなっていく=終わっていく現象。でも昔は始まりを繰り返すというか、ゼロから全定義するゲームが溢れていた訳だ。

 

どのゲームもコントローラのマッピングがフリーで、カオスで、エキサイティングだった時代。完成を志向するのが0~100までの100付近での動きなら、独創するという行為は0付近での動きであり、それが終わったらまたクラッシュ&ビルドを繰り返していた時代。0から何度でも蘇る訳だ。

 

懐古厨かもしれないけど、そういう時代が黄金時代だったように思う。毎回0付近からだったから斬新だったし、驚きがあったけど、今は100付近での動きばかりだから、デジャヴしか感じられないのだ。ある意味ではポップアートだったゲームが、ポップカルチャーに変わってしまったんだよな。

 

終わりに向かっていくゲームデザインと、始まりを繰り返すゲームデザイン。厳密にはその両方が素晴らしいんだけど、今は前者ばかりが溢れている印象で、その比重が偏っているのではないか。僕のゲーム史で一番楽しかったSFC時代は、丁度この後者が前者に橋渡しする絶好のタイミングだったんだよね。

 

今の3Dゲームはもう橋渡しがとっくに完了していて、冒険がほとんどない。だから新規ユーザー以外、端的に言えばオールドゲーマーはゲームに驚く要素がほとんどない。ゲームが変わってしまったのかゲーマーが変わってしまったのかは分からないけど、今はそういう時代なのだ。

神・地獄極楽・輪廻転生の不在証明

定義
神は全知全能である

 

定義
地獄極楽とは死後受肉に拠って呼び出される世界である

 

定義
輪廻転生とは同じ光の再臨(世界へのデジャヴ)である

 

公理一
光は諸々の外因に拠って発生し、減衰し、それ自体で再生能力を持たない

 

公理二
全ての複製技術は数学的記述で行われる

 

定理一
黒に属する内は精神は一切の感覚を持たず、精神はそれを超える光に宿る

 

証明一
夢とは黒を超えない閾値未満の発光現象であり、受肉とは黒を超える閾値以上の発光現象である。例えば睡眠と覚醒は天地創造の比喩であり、その比喩で考えてみると、睡眠の間は世界は黒であり、滅びているが、夢が何処からともなく現れて、閾値未満の自我が朧に立ち上がり、覚醒で以って完全に立ち上がり、黒を圧倒する。即ち閾値を超えた光である。これを自我論的に考えてみると、全ての人間の自我は零歳から始まるのではなく、精々二、三歳から始まるものであり、それまでは何の意識も記憶も存在しないが、この期間の以前が黒に、只中が夢に、以降が自我の覚醒即ち光に相当する。またこれを宇宙論的に考えてみると、宇宙年齢は138億年とされているが、厳密にはビッグバン以前の時間も含めなければならず、それが黒であり、ビッグバンに到るまでの兆しが夢であり、以降が世界の受肉即ち光に相当する。仮に黒を超える光に到らなければ世界は只々黒のままであり、あるいは只々夢に終わるのみであり、一切の感覚を持つことなく過ぎ去る故、誕生する為には夢で終わらない――黒を圧倒する――閾値以上の光が求められており、生きとし生けるものは全てその光を有さざるを得ないのである

 

定理二
数学は現実の近似にはなり得ても、現実そのものを記述することはできない

 

証明二
1+1=2は自明だが、これは本来前半の1と後半の1が等価物である前提が必要である。例えばリンゴが2つ存在したとしても、これは便宜的に2つと数えているだけで、厳密には異なるリンゴが1つずつあるのみであり、即ち1という整数は存在しても、各々の1が別々の1である限り、2以降の整数は本来カウントすることができず、等価物を前提としなければならない物量的数学に現実そのものを記述する力はない。また数学は無限小数を用いた所で力の無段階性を表現することはできず、例えば0.3141999...という無限小数と0.3142000...という無限小数があるとして、この小数点第四位の1と2を跨ぐ時に無段階の表現が不可能になり、何故なら0.3141999...と0.3142000...の中間値である有限小数0.3142を挟まざるを得ない時点で無段階が途切れてしまうからである。如何なる無限小数の如何なる位も繰り上がる際には有限小数を挟まざるを得ず、仮に有限小数を無視して0.3142000...に飛べば更に階段の段差が高くなるだけであり、動的な無限aと無限cを繋ぐ架け橋に静的な定数b(整数ないしは有限小数)を挟む時点で力学的数学はアナログ的表現――世界の実態的記述――の近似以上にはなり得ない

 

定理三
世界は不確定なもので構成されている(全ての数学は無限を隠している)

 

証明三
光速はプランク時間プランク長を移動するが、光速未満の速度で移動する距離をプランク時間まで分解した場合、尺度の最小単位であるプランク長を下回る移動量が観測されなければならず、仮にゼロとプランク長の中間値を取れないのであれば世界には静止と光速の二値しか存在しないことになり、そこから反証的に空間は無限の分解能を持っていることが導かれ、規定可能なものが概念として、規定不可能なものが実態としてあるのみである。もう少し厳密に定義するならば、速度が無限の分解能を持っていなくても、角度が無限に細分化できる時点で特定軸の移動量は無限に細分化できるし、その結果速度(あるいは力)の無限の分解能も対応的に保障されざるを得ず、これに拠りあらゆる定数的記述――静的状態の復元可能性――は否定され、近似を限界とした数学の断定不可能性と森羅万象の一回性は紐付けられる。即ち世界が定数的に構成されていれば森羅万象は復元され得るが、証明二に準じた数学的に切り捨てられた端数が存在する限り、見掛けの初期値を揃えられたとしても森羅万象が復元されることはなく、その無限の端数はバタフライエフェクトの如く無限の未来を呈すことになる

 

定理四
あらゆるものの再現は総じて不可能である

 

証明四
宇宙のサイズが一定であるならば、公理二を前提とした証明二と証明三の帰結に拠り、自然発生的な意味での永劫回帰は起こり得るが、宇宙は膨張する。故に究極の複製技術が存在した所で、これが固定的な方法の場合、その一回目と二回目では初期値の違いから極めて微視的な誤差が生じ、零回目即ちオリジナルとの間でも当然そうならざるを得ず、これはバタフライエフェクトの考え方(万物は万物を動かす)からも明らかである。また流動的な方法の場合でも、公理二を前提とした証明二と証明三の帰結に拠り、森羅万象の一回性――小にも大にも無限の性質――は再現不可能であり、無限には固有性があり、記述不可能性――言い換えれば永遠記述――がそれを物語る

 

結論
証明一に拠り、我々は光として存在するが、公理一に拠り、それは最大から最小へ、即ち零へ減衰し、そこから再生する能力を持たない。これだけでは諸々の外因に拠ってもう一度再現される可能性は残っているが、それも証明四に拠り無効であり、クローンとデジャヴは似て非なるものであり、消滅した光は二度と帰って来ず、永遠に黒に帰結せざるを得ない。故に輪廻転生は存在せず、死後の世界へのデジャヴ(二回目感を伴う再臨)も否定され、結果地獄極楽も存在せず、それを実現できない神もまた全知全能ではなく、存在しない