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THINK ABOUT SOMETHING.

everything to one thing.

アルマーニの「偽物が嫌いだ」という発言をたまたま見つけたが、『本物=だらしなさの対極』にあるなといつも思う。もしだらしない方向に本物があるのなら、本物は自動的に無限生産されるものということになるし、しかし本来自然状態に文化などない。

 

だらしないものと言えば、最初に思い浮かぶのがヒッピー。随分前にも言ったが、ヒッピーとはつまり『輝かないことで万人を隣人にする』ということだと思うんだけど、それは表面現象として相当短い期間でピークを終えただろうと予想する(正直詳しくない)。

 

だらしなくないものと言えば、ファッション、音楽、映画などのハイエンドに属するもの。そういう意味で一見だらしなく見えてフォーマルなのがピストルズランボー天井桟敷。フォルムとは結局のところ『有意な収束』だし、彼らはだらしなさ=無意な総体から決定的に抜きん出ている。

 

これらは『型を守って型に着き、型を破って型へ出て、型を離れて型を生む』の典型で、ヒッピーでもアンフォルメル(アート・アンフォルメルを含む)でもハイエンドに向かえばそれが型になっていく。意識の眠りというか意識の緩みというか、そういう状態から決して文化は生まれないのである。

 

例えば広告の世界は着用するスーツの縒れひとつにも拘り、シャツの皺ひとつにも拘り、起用モデルの選択からそのそれぞれの位置関係(構図)まで徹底的に拘っている筈で、その答は本来無限だが、答を『狙いと結果の一致』と定義するなら答は一定で、そこに向かって収束させなければならない訳だ。

 

『総体-無意な総体=有意な総体:答=100:1』であり、総体を有意な動きのみに彫刻していく行為はフォーマルだが、ただ闇雲に削るだけでは何ものにもならず、哲学から来る当たりだけがそれを有意に導くのだ。ならばインフォーマルなシュールやダダやアート・アンフォルメルが廃れるのは必然的。

 

『総体>無意な総体>有意な総体>答』という関係の大きい方向を目指すとはつまりそういうことなのだ。可能性は絞らなければ逆説的に可能性とは言えないし、正しいか悪いかは横に置いておいて、唯一的なところに向かうのが永遠の王道なのである。言い換えれば『フォルムは不滅』なのだ。

 

つまり『everything to one thing』。そしてそれこそが『the main thing』。これが1ならぬ2以上になると迷いや弛みがあることになり、例えば広告を作る度に違う表現に帰結し得る訳だが、現実的には1の近似が限界で、その限界方向に栄光があると僕は信じる。

 

そして無限の方向・反対方向に向かってインフォーマルに、だらしない状態になるのである。比喩的に言えばタイトロープウォーキングのロープの軸線上以外の動きはすべてインフォーマルで、有意にならず、軸線上を行くただそれだけが唯一有意であるような、フォルムとはそういうものなのだ。

 

もう少し現実的に言えばこのロープは透明で、且つ真っ直ぐではない。ゆえに哲学によって可視化しながら渡らねばならず、当てずっぽうで渡れる可能性があるのは最初の数歩のみ。つまり明らかな確信で以ってしか遠くへは行けず、それがないもののすべては地に落ちざるを得ないのである。

 

問題なのは有意な総体のなかから選び抜いた答が、今自分が向き合っている課題の答とは限らないことだ。栄光が大きければ大きいほどいいとも限らず、目標を敢えて限定しているケースもある筈だからだ。前者であればどのロープであれとにかく遠くへ行けばいいという話だが、そうもいかないし。

 

ただ僕が今日言いたかったのは、『本物=遠さの比喩』ということなのだ。この場合の遠さとは無意な総体からの遠さであり、そこから遠くへ行けば行くほど有意なものになる訳で、そういう意味では部屋の掃除も大切だし、アイロン掛けも欠かせないし、爪もこまめに切らなきゃいけないのである。

フォーマリズムとアンフォルメル

オリンピックというのは完全性に近づく行為だが、完全性そのものには全く面白みがない。例えば完全性はコンピュータで実行可能だが、理想のフォームをミニマルに寸分の狂いなく繰り返し、道の完全な中央を走り続ける100m走のCGがあっても、何が面白いのか。

 

つまり不可能なものを可能たらしめようと足掻く姿が『輝き』であり、可能なものを可能なままに享受する一切はその輝きの一切に勝てない。例えば貞操観念の高さと性的興奮の高さは比例するし、自らをオリンピックのように競技化することを僕は『不可能化』と呼ぶ。

 

オリンピックとその他一切の大会の勝利の違いというのは、完全性を目指すフォーマリズムの有無の違いで、例えば貞操観念の低い女性は完全性を目指さなくても性的対象になり得る。内輪だけで盛り上がる草野球みたいなもので、しかしその盛り上がりはフォーマリズムから来る盛り上がりには勝てない。

 

こんなものは理想論に過ぎないが、恋愛関係がやがて冷え切る相手とは結ばれない――そういうことがあるとすれば、それは不可能化する者同士の結びつきでしかあり得ない。つまりフォルムが必要で、自らを不可能化することとフォルムの志向は相即するし、でなければ自らの不可能化など成立する訳がない。

 

不可能化とその他一切を分かつものがフォーマリズムなら、その他一切を乱暴にアンフォルメルと分類することもできる。現実的にはアンフォルメルな恋愛の方が安心感があって僕は好きだけど、その安心感はあるいは仮初のものかもしれない。永遠があるとすればそれは三島が言うように、やはりフォルムだ。

 

不可能と可能の瀬戸際のところで邁進している人間が、その人間同士の結びつきが世界すべての上澄みの部分であり、楽園であるならば、やはりほんとうの楽園というのはそんなに安易なものじゃない。可能の中で遊ぶ可能性は、不可能に進む可能性よりか弱く、だから僕は最終的にダダが嫌い(になりたい)。

 

不可能の可能への反転、その刹那の甘い蜜、そして日常。つまりメロディアスな起点、ピーク、終点のこれらミニマルは、フォルムを志向するがゆえにほんとうのミニマルではない。つまりコンピュータライクではなく、揺らぎを前提としたIambic 9 Poetry的な不可能側の、人間側のミニマル。

 

言い換えれば同じフォームを走る分だけ繰り返すようなミニマルではない。Iambic 9 Poetryは同じような繰り返しに見えて、細かく見ればすべて細部が違っている。アンフォルメルサイドの人達はここが極めて似通ってくるというか、細部の徹底がない。つまりダダ漏れ、垂れ流しなのだ。

 

でもコンピュータがアンフォルメルという視点はなかなか面白いな。可能なことを可能なままにやっているだけ、という点ではその通りだし、それは絶対に有意閾値を超えることがない。だから僕は今はレイ・カーツワイルの思想にとても懐疑的。全部ではないだろうけど、大分滑ってる筈。

 

僕が言うところのフォーマリズムとはアンフォルメルに留まらないこと、不可能を可能たらしめる一切の活動だけど、そういうものが世界を面白くするのは間違いないし、ほんとうの最先端≒楽園のエミュレーションだなっていう気はする。コンピュータにはこれは真似できないという持論は多分、変わらない。

パイオニアの補正

なんとなく藤原ヒロシのことを考えていた。そんなに詳しくないんだけど、日本のDJの先駆けらしく、昔読んでたファッション雑誌のいろんなところに現れたものだ。しかし当然のことだけどパイオニアとベストプレイヤーは別だと僕は思っている。

 

ただ『ベストプレイヤー』という言い方だと、音の響き的にパイオニアを上回るという感じを受けるが、そうじゃない。ベストプレイヤーがパイオニアになることは先ずなく、即ちフォロワーとして存在し、パイオニアがベストプレイヤーになることも先ずなく、先行事実だけが彼の名誉なのだ。

 

でも事はそう単純でもない。例えば藤原ヒロシが予定していたプレイリストを他のDJがたまたまプレイしたとしても、藤原ヒロシと同等の評価には絶対にならない。これはある意味では当然なんだけど、そこには格闘ゲームのウメ補正に通じるスナップ作用が存在すると思う。

 

例えば著名人と一般人が同じ発言をしても、それが頭に残るのは前者の方。そしてその時は意味が分からなくても、生活していく節目で「あの言葉はこういうことだったのか」と覚る瞬間がある。でもこの現象が起きるのは著名人の言葉のみ。一般人の言葉は忘れてしまうからだ。

 

これをスナップ作用と呼ぶとして、頭に残り続ける言葉は生活のすべてと組織化し、やがて名言補正がかかる。それの最たるものがパイオニアであり、藤原ヒロシとか、糸井重里とか、宮本茂とかには、そういう力がある。そしてこの作用がパイオニアとベストプレイヤーを混同させていく。

 

つまり何が言いたいかというと、純粋な視点で観察すれば、ツイッターでもいいんだけど、著名人どころの騒ぎではない名言というのはあちらこちらに転がっていて、ただスナップ作用が働きにくいというだけのこと。そういうものがあるがままに評価されることは中々ない。

 

例外はあれ、僕は何事も未来に向かって完成されていき、後から出てきたものの方が強者だという考えを持ってるけど、オリンピックの世界記録なら数値化されるけど、そうではないものは着眼点がパイオニアに集中してしまう。人は自分の目で見ることを嫌うから、大きな目の見る世界に乗る。神と一緒だ。

 

もちろん先行事実はそれ自体が凄い才能で、肯定されて然るべきものだけど、すべてを超えてゆくものというような誤解も同時にあって、しかし世界を更新するのは後ろからの差し馬だというのが僕の認識。逃げ切るケースもあるかもしれないけど、死後永遠に追い抜かれることがないということは、ない。

 

そういう意味ではビートルズばかり聴く人とか、任天堂のゲームばかりプレイする人とかは、凄く損してると思う。オールタイムベスト系の記事になるとこれらは必ず大多数を占めるけど、あれがバラバラになる時代に生きてみたいもんだ。

遠くか否かが問題なのだ

無限性原理が導くのは『類似の最終的な無効化』であり、即ち類似は問題ではなく、遠くか否かが問題なのだ。例えば角度が1度違う直線が二つあるとして、それらはやがてお互いの隔たりをとてつもなく大きくしていくだろう。これはリニアだが、初期値鋭敏性を得る為には非線形のアトラクターに乗るべし。

 

何を以って非線形的かという判定をする時、偶然性をその基準にすることができると思う。例えば僕は日常であまりはっちゃけないが、これは必然性を大きく取っている証拠、なるべく予定調和で動こうとする証拠であり、逆に予定できない偶然性に身を委ねた人間の方が満面の笑みも出るのである。

 

ルーチンの枠外が偶然性だとすれば、そこにこそ現象の巨大化の可能性が生じる。ルーチンにドラマは何一つ生じないとしても、その枠外では何一つ確定できない何ものかが渦巻いている。そこに筋を通さなければアンフォルメル(純粋偶然性)だが、偶然性に筋を通せばそれはドラマに変わるのだ。

 

ルーチンの枠外の遠くに行けば行くほど、コントロール可能な最大値まで遠くに行くほど、ドラマ――現象の振り切れ――の大きさもまた大きくなる。コントロール不能な外国語での笑いは松本にも無理だが、コントロール可能な詩的言語=アンチルーチン的言語のアンチ性を高めるほどに、笑いは大きくなる。

 

偶然性に筋を通すというのは、言い換えればアンチルーチンが、あるいはヒューマニティーが未踏の因果律を成すこと、有意な何ものかに姿を変えること、バタフライエフェクト的に言えば竜巻に到ること、因の渦巻くアンフォルメルを超えること、果の彼岸に達すること、そういうことに他ならない。

 

偶然性はそれ自体では単なる『因』であり、『果』に達することでアンフォルメルを終える。因ばかりが不発的に断続するのがアンフォルメルであり、それが未踏の果に達することがドラマであり、この既視感とドラマの大きさは反比例する。そして既視感の大きい因は既視感の大きい果にスナップされやすい。

 

既視感の小さい因、即ち日常的言語から隔たった詩的言語は、スナップ先の果が極めて深遠である。言い換えればアンフォルメルに飲まれやすい絶海を目指せば目指すほど、果に達した時はドラマチックなのだ。ゆえにスナップ先が本来深遠であるところを間近に感じるところ、そこが偶然性の理想郷と言える。

 

因果が同じ岸にあることが必然性ならば、因果が此彼の岸に分たれていることが偶然性であり、その彼岸が隔たっていればいるほど達した時はドラマチックだが、そこはアンフォルメルの絶海であることを忘れてはならない。果に対して前者が惰性なら後者は運動であり、その遠くへゆけるのは万人が然り。

 

エロスの深みを極めていけば、即ち偶然性の理想郷で果の味を占め続ければ、此彼の振り幅はそのままに深く遠くスライドされ、即ち難易度は変わらないまま深く遠くへゆけ、その彼岸はアトラクターに乗らない者の此岸から遥か彼方まで隔たることになる。これは絶対性原理とは違う意味での『爆発』である。

 

絶対性原理の爆発はアトラクター自体がその限界を規定したもので、継続を前提に万人に約束されたものだ。しかし上記の爆発は個人個人に限られた鋭い爆発であり、ここにアトラクターの選民思想が生じるが、この場合の同アトラクターの初期値差も絶対性に帰結するのは絶対性原理によって保証されている。

 

即ち絶対性原理による絶対性の保証と、その絶対性の初期値鋭敏性の現れの獲得、この両立が今日のツイートで僕が目指してきたものであり、前者は全アトラクターに保証されているが、それを後者に高める為にはアトラクターを絞る必要があり、それが偶然性の理想郷というものに他ならないのだ。

芸術量産機

昨日の続きだが、例えば『ピアノが上手くなりたい』という初期値のアトラクターの場合、これはもう才能依存だ。熱量をどれだけかけても『超えられない壁』が出てくるし、しかしそれをストレンジアトラクター的に解釈すれば、目的外の約束――即ち芸術の爆発――が生じる。

 

異種アトラクター間の相対性ではなく同アトラクター間の相対性、即ちヨコの比較ではなくタテの比較、あるいはジャクソン・ポロックのナンバリング前期と後期、キース・ジャレットの完全即興演奏の前期と後期、そういうものを超えた無限大の最果てに無限大ゆえの『絶対性(芸術の爆発)』がある訳だ。

 

『これより大は何もない』と断じるのがストレンジアトラクターの究極の帰結であり、アトラクターそれ自体の宿命であり、どの宿命に乗るか僕たちは選択することができるが、帰結は全くの予測不可能である。僕が絵画をやろうともピアノをやろうとも、この原理の上に立つ限り、最後は必ず爆発するのだ。

 

予測可能なアトラクターは、爆発を起こせる者と起こせない者に分岐するが、予測不可能なアトラクターは逆説的に、全ての者に爆発を約束し、ゆえに予測可能な現象を目指してはいけない。ジャレット以上の技巧派などいくらでもいるし、しかし彼が評価されている現状を如何に解釈できるかにかかっている。

 

そして次に考えるべきは『どの宿命(アトラクター)に乗るか』だろう。これは最も自我的なもの、固有的に抵抗が働かないもの、言い換えれば『エロス』がそれであり、昨日の式で行けば『自動的代謝-生理的代謝=当人の個人的代謝-万人の個人的代謝=当人のエロス』ということになる。

 

例えば僕の場合、肉体か頭脳かで言えば頭脳派だが、更にそれを文系か理系かにも分類できるし、文系なら哲学か文学か、文学なら散文か詩かなど、無限に細分化していける訳だが、この最小点は必ず『未定義なるもの』に帰結する。定義できてしまえばまだまだ他者と重複していることになるからだ。

 

その最小点周辺が上記の式のエロスに相当し、これはもう各人試行錯誤するしかないが、強いて言えば心理学的類型論で自分を分類し、同分類の偉大なる先人を目指すのが手っ取り早いと思う。今は決定論を捨てたけど、僕の場合はそれがスピノザだったし、あるいは宮沢賢治でもあった訳だ。

 

だがエロスと同じように、人間は結局のところ人口の数だけ類型が存在する。その最小単位が『自分』だ。だが類型論で大きく括ってやるとそれを見つけやすくなるから、類型論はその最小単位の導としては有効なのだ。僕は今はスピノザと全く違う領域に来た実感があるし、それはつまりそういうことなのだ。

 

ちなみに『偉大なる先人=ストレンジアトラクターの宿命に帰結した人達』と見ていいだろう。彼らはその原理を知っていようが知っていまいが結果的に到達した人達であり、そのいずれもが総じてパラノイア的な継続性を伴っており、そしてそれを知った僕らは彼らをロールプレイすることができるのだ。

 

予測できない爆発の約束か、予測できるものの無保証か。僕は前者を取る為にストレンジアトラクターに乗るし、芸術家の量産機のメカニズムを昨日今日でつぶやいたつもりだ。それが分かれば後はロールプレイ(量産機を稼働)するしかない。このメカニズムの螺旋は強烈なのだから。

『継続は力なり』の理論的証明

『継続は力なり』を理論的に証明しようと思う。先ず東にプランク長進んだ時の東方向への移動量は、元の地点よりプランク長。この移動線を北東ないしは南東にずらしていくと、東方向への移動量は徐々に狭くなり、北ないしは南のゼロをピークに無限に細分化することができる。これが世界の無限性原理。

 

全ての力は無限性原理により、独自の系を成し、一致することはあり得ない。近似はあり得るが、その僅かな隔たりがバタフライエフェクトの如く無限大の差異を指数関数的に形成していく。ローレンツ方程式の軌跡は継続することで差異を増幅するが、その爆発が力ならば、継続は力なりは理論的に正しい。

 

付け加えれば例えトップクラスでも同一性は力ではなく、同一化しないことが力なのだ。それは無限性原理によって保証され、バタフライエフェクトによって壮大に増幅される。即ち『隔たり』であり、究極的には――無限大に増幅された最果てでは――『絶対性』であり、これこそを僕は『力』と定義する。

 

結局のところどう足掻いても『継続は力なり』なのだ。この絶対性に向かわざるを得ない人間の原理を『絶対性原理』と呼ぶとして、しかしこの原理はそれ自体ではまだまだ不完全である。何故なら熱量とカオスの比例関係と、爆発したものの倫理を全く想定していないからで、爆発が大罪では意味がない訳だ。

 

独自の思想で独自の系を成し、一つの力を継続すること。途轍もない何ものかへの帰結。代替えの利かない圧倒的到達。そう、芸術は必ず爆発する。但し蝶だけの世界では竜巻が限界としても、人間社会では原爆も生み出す訳で、系の熱量はカオスと比例関係にあることを先ず以って知るべき。

 

但しアートの場合、この辺の問題はある程度回避できる。三島は「どんな非道徳な芸術だって認める」と言ったが、現実で実現できないことはアートで昇華すればいいし、従って熱量は可能な限り大きく、言い換えれば続けられる程度に最大に取り、爆発はアートに変換すればいいのである。

 

継続は力なりの言い換え――絶対性原理――は、ストレンジアトラクターの性質――差異の指数関数的増幅――を利用したものだから、全く以って予測ができないし、だからこそその帰結は芸術的に価値がある訳だ。随分昔にも僕は言ったが、頭の中で事前に完成されたアートは総じてつまらないのである。

 

今日のつぶやきはあんまり独創的な結論にならなかったが、万人万有のストレンジアトラクターを理想的に運用する方法論が添えられていれば、もう少し面白い話になったに違いない。ちなみに『熱量』と『情熱』は全くの別物で、精神的な運動量のことを指すから、むしろ負荷の高さを示すものだと思う。

 

もしかしたらその辺にヒントがあるかもしれない。と思って昔のつぶやきを探してみたら、過去にこういう式を僕は作っていた。『自動的代謝-生理的代謝=当人の個人的代謝-万人の個人的代謝=当人のエロス』というもので、このエロスの部分に最大の熱量をかければいいのかもしれないな。

 

ところでこの『当人の個人的代謝』の部分、即ち生理的代謝以外の自動的代謝の部分(差分)は、予め備わっているものではなく、自己開拓していくものだという直観がある。この差分がめちゃくちゃ狭い人を僕は知っているし、しかしそれが才能の枯渇だとは思わないし、開拓不足という印象なのだ。

ヴァンパイア理論

『もし、一が神であるならば、無限大は、悪魔である』という言葉がある。シモーヌ・ヴェイユの言葉だが、この一という数字が神ならば、この数字は死んでいる。これは一そのものが無限だからであり、無限に確定できない彼岸がそれならば、神は死んでいる。

 

しかし人はこのデッドナンバーを永遠に求める。最小単位で言えば恋人。二人の愛を一つにあらしめんとする。しかし吉本隆明が言うように円満な家庭など幻想だし、両者間でこの見え方には必ず差異があり、そこから綻んでいくのが妥当。1+1=2すら幻想のこの世界で、確定できるものなど何もない。

 

哲学的に無知に近いので間違ってるかもしれないが、反対に最大単位は『我思う、ゆえに我あり』だろう。これは万人万有の確実性を表す哲学史上最大のトピックで、しかし光の速度が無限に細分化できるように、『ある』という言葉の定義も無限に細分化できるなら、やはり一つにはならない。

 

とてつもなくいい線行ってるのだが、言葉の曖昧性によって成立する欺瞞なのは間違いない。即ち二人以上の間で成立する一つというものは、厳密性を無限に高めれば存在し得ない訳で、一人一人の感じた一つ一つがただバラバラに存在し、それらは総じて同じ一つにはならないのだ。

 

それでも僕たちはこのデッドナンバー――『1』という名の神――を強く希求する。学問の世界は総じてそれを目指しているし、この不可能性への永遠の接近という構図はオリンピックと全く同じ。『理論上完璧なもの』と『現実に限界なもの』との隔たりを埋めていくのがそれで、しかし神など不可能なのだ。

 

しかし不可能だからと言ってそこから離れるとどうなるか。ドストエフスキーの言うように『神がいなければ全てが許される』のであり、シモーヌ・ヴェイユ的に言えば一から最も遠い無限大――偶然性という名の悪魔――に行き着くだけなのだ。

 

『1』というデッドナンバーはつまり、デッドゆえにアライブであり、不滅であり、それが三島的なフォルムになるのである。寺山が三島との対談で見劣りしていたのはその点で、アライブゆえにデッドという逆説を見抜けなかったところにある。僕はアンフォルメルには何の期待もしていないからね。

 

神は最大の必然性である。それゆえに数字で表すならば、『1』でしかあり得ない。二つ以上あればその時点で必然性は分散され、最大の必然性ではなくなる。しかし悪魔にその心配は要らない。必然性がなくなればなくなるほど完成されるからで、ゆえに数字で表すならば、『無限大』でしかあり得ない。

 

僕たちが無意識的に神を希求するのは、この辺が関係しているように思う。虚無とか自由の話にも結び付くと思う。恋愛が人を強くしたりすることがあるのは、この原理に則った場合のみ。そしてそれが適った場合のみ。限りなく必然的になろうとする行為は、不可能ゆえに全て美しいのである。

 

つまり悪魔は逆説的に、枷だらけで、神もまた逆説的に、究極の自由なのだ。アンチテーゼが全滅する絶対の世界、それが『神の領域』であり、全ての振る舞いが無因果なのに対し、悪魔は神を原因に据えないといけないから、その究極因によって必然的に雁字搦めに陥るのである。

 

無因果の聖なる振る舞いとはつまり、究極的には全てを照らす光であり、光速のような限界もないものであり、その究極因を前提に反対の領域=即ち影に生きようとしても、それはほとんど成り立たないということなのだ。だから僕は素直に神を目指すし、アングラは昔から苦手なのだ。

 

最高に必然的なものは最高に美しく、最高に自由なのだ。もちろん松本人志を面白いと感じない人も、キース・ジャレットを素晴らしいと感じない人もいるだろう。しかしそこを叩いてもその影の領域は狭いし、理論上完璧なものの不可能性に寄生してても仕方ないのだ。

 

光――楽園にあらんことを――は、一意を目指す最たるこの怪物は、永遠に一意に確定することなく、無限に膨張する。万人万有の第一原因として、その究極の帰結に際限なく接近する。してみれば悪魔はより遠くへ向かい、神はその完全性を、悪魔はその虚構性を高めていく性善説ができあがるのだ。