BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

第53回宣伝会議賞に際し思ったこと

最近、第53回宣伝会議賞の作品を考えてばかりいる。

 

何年か前に確か15件ぐらい出したのかな、それが全部玉砕したのもあって、その翌年とかは素通りしてしまったのだけど、今年はまた頑張ろうと思って取り組んでいるところだ。

 

そこで思ったのが、言葉に対する感動の閾値がずいぶんと上がっているな、ということだ。

昔なら「これ送りたい!」という感じで拾ってしまうようなコピーも、今は余裕で捨てまくっている。

逆に言えば多作は不可能だけど、ほんとうに心からいいと思えるものだけを残せるようになった気がするのだ。

 

さて、独り言で終わりそうな気もするが、この『捨てるときは素早く、取るときは奥深く』を基本態度に据え、いくつか作品を書いてるうちに思ったことでも書こう。

 

寺山の言葉で『天才だけが遠くへゆける』というものがある。

『コピーライティング=誰にでも手の出せる創作』とするのは言い得て妙だが、ファイナリストぐらいの段階になると『誰にでも』という訳にはいかない。

つまりこの言葉は、結局のところコピーでも同じように当てはまると思うのだ。

 

ただ、他の創作の例えば小説なんかと比較して、コピーには『言葉の本質的な部分は身近』という特徴がある。

つまり言わんとしていること自体は遠くなく、但し『遠くない=当たり前のことでしかない』ということでもあるから、それを謎かけっぽくしたり、見る角度や言い方を独創的にすることでオチを伏せ、読後にカタルシスを与える。

当たり前の日常が構図の切り取りやそのエディットによって、素晴らしい写真に昇華されるようにだ。

 

一番注意すべきだと思うのは、多分、コピーを読んでいる途中で最後までの内容を先読みされてしまってはいけない、ということで、先読みできてしまうということは『抜け』がないのだ。

誰にでも思い浮かぶような内容だから誰にでも先が読めてしまう、というところから群を抜いていない訳で、主語と述語の関係が説明に終始するようなコピーにこれは多い。

 

例えば『AはA’です』とか言われても、ダッシュがついただけでは何の驚きもないし、誰にでも先が読める。

これを『AはZです』ぐらい言い切ってしまって、それでもイコールが成立するような言葉のエディットがあれば読後のカタルシスが起きる。

この場合のZというのは『Aとは全く違うもの』という意味ではなく、文面がAの近似からはかけ離れているのに意味合いは同じ、というようなもので、文面上の近似というのは『Aを易々と想起できてしまう内容』というようなものだ。

具体的にはAが名詞なら名詞で、動詞+名詞なら動詞+名詞で、形容詞+名詞なら形容詞+名詞でイコール化し、つまりAと同じ品詞構成でイコール化し、且つそれが初歩的な類語であるとかね。

 

過去の受賞作の『家は路上に放置されている。』も前後が説明関係なんだけど、これは『着眼点の驚き』があるからこそ成立していて、つまり『Aは~です』の述語は言い方ひとつではないし、それを見事な言い方にまで昇華させている。

つまり『家(A)』の説明を別の品詞構成で閉じている上、それが『家』を易々と想起できてしまう内容ではないから(『家』の部分を伏せたら謎かけになり得る)、『(この説明は)Z的』ということなのだ。

でも上述した『言葉の本質的な部分』はこのコピーでも身近で、『家はずっと同じ場所です』という当たり前のことを見方(自分の場合グーグルアースを想像する)や言い方を変えることで当たり前にさせない訳だ。

 

また、偶数的なコピーも先を読まれることが多い。

言わば『恋はA。愛はB。』とかそういう類のコピーだ。

この構成の時点で『愛は』の後にAに似つかわしくないものを持ってくることは先ず読まれる。

同時に『かけ離れていればいるほどなるほど感が出る』というのも、まあ結局は読まれるので、Aの対義語まで行かなかったとしても、少なくともAの類語周辺は線から消える。

もし『恋は仮初。』と来たら、もう『愛は永遠。』になるのはほぼ鉄板な訳だ。

 

上手く言葉にできないのだが、ただの左右対称になっているだけで、左を読めば右が、右を読めば左が読めるというこの偶数構成は、読後の驚きが起こりにくい(起こらないとは言わない)。

『対義語、対義語。』という構成だけでなく、『類語、類語。』という構成でもこれは同じことで、これを『対義語、対義語、非対義語。』や『類語、類語、非類語。』という奇数構成に変えれば、最後の奇数がオチになる訳だ(左右対称が破壊される)。

これについては『おとなもこどもも、おねーさんも。』が一番分かりやすいと思う。

 

 確かビートたけしが言っていたことだが、映画を撮り始めた当初勝手が分からないから、とりあえず今まで観てきた映画で「これはしてはダメだ」と思ったことを、全部避けて撮るというやり方をしたらしい。

『名コピーの作り方』とかいう本が仮にあったとしても、名コピーが一回性なら方法論も一回性のはずで、つまりそこにはもう旨みがない。

だから唯一できることは、ビートたけしのように『禁則を決めることで打率を上げる』ということだと思うし、これってあらゆるスポーツの基本なのだ(脱線するから説明はしない)。

 

結論としては、本質は常に身近だとして、そこから(表現の)遠さそれ自体を目指しても路頭に迷うだけなので、『オチを伏せる(先を読ませない)』というところに重点を置けば結果的にそれが遠さになる、ということを念頭に置けばいいと思う。

『これが来たら次はこれ』と相場が決まっているところに驚きはないので、その相場からの『外し』を置くか、相場観がそもそもないところに行くかのどちらかを目指せたら理想的。

 

とにかく今年は本腰入れて、じぶん、頑張るべし。

創作方法論

例えば『人々』というただそれだけのことを『Understar Mages(星の下の魔法使いたち)』と言い換えれば雰囲気が出る。この時『人々≒Understar Mages』な訳だが、『=』ではなく『≒』なところがミソで、あまりに=から離れ過ぎるとそれは原像のモザイクになる。

 

吉本隆明が「宮沢賢治の作品は特異な視線に切りとられた景観の、言葉によるモザイクという領域を出ようとはしなかった」と書いているけど、=と≠の狭間の≒のパーセンテージをどこに置くか。宮沢賢治は確かにこれがモザイクレベルと言えるところまで外している気はする。

 

何かを表す時=が必ずしも答ではないし、端から端まで≠ではそもそもそれを表す意味がない。≒以上のこと――つまり=になること――はできないし、=の限りなく近似の≒を意図的にアウトフォーカスして=から離し味を出すテクニックもあると思う。

 

原像の100%の表現が=に値するとして、80%ぐらいまでの表現(≒)は順当というか、驚きがほとんどない。周知のことを周知の表現で差し出されても「それで?」となるだけなのは目に見えているし、これを50%ぐらいの表現にまで落とすというか、意図的に断片化するのもひとつの手ではある。

 

例えば小説。全体を読んでこそその小説の像が最も明瞭になるのは分かりきっていることだが、ひとつひとつの文章の断片はその像の隠喩にはなっているだろう。つまり、その瞬間瞬間が≒である訳だ。しかしそれでは受け手により振り幅があるので足らずを埋め、像を狭くフォーカスしていく訳だ。

 

これを敢えて断片だけを提示し、最初は理解されなくても徐々に原像が見えてくるような、人それぞれの人生と共に紐付いていくようなやりかた。即座に分かるのではなく、立ち止まって考えて初めて50%が80%や90%に昇るような、むしろ隠喩こそが100%に最も近づくかのようなやりかた。

 

原像自体が独創的な場合、=の近似のまま提示しても驚きはあるし、これを更に隠喩してしまうのは段階をすっ飛ばしていることになる。アメリカ大陸を発見した人間がそれを詩にしても意味が通じないようなものだ。だからこの場合ストレートでいいと思うし、でもそんな発見は無数にはない訳だ。

 

だから敢えて足らずを作り、心地良い間を生み出し、その心地良さのなかでそれぞれがキラキラしたものを埋めていく。原像そのものよりもこの間の心地良さを目指す、言い換えれば、スペシャルなものそれ自体を表現するのではなく、スペシャルなものを隠喩に宛がうピースへと落とし込む。

 

更に言い換えれば、詩的言語で日常言語を上書きする。この場合の詩的言語というのは異化作用があって、それ自体でスペシャルな言語を指し、その言語についての詩を書くのではなく、その言語によって日常を隠喩する。これならばその言語を使う必然性を無数にあらしめ、異化作用を躍らせることができる。

 

『星』は詩では比較的よく出る単語だと思うが、その異化作用はただ置くだけでは働かない。この時深みへと到るような描写でその異化作用を引き出すか(ダメージドされたゴールデングース)、あるいは素描でスペシャルになる大発見をするか(そのままのベイプスタ)の次の、第三の選択肢。

 

日常のすべてに星や天使や魔法使いを(必然的に)配し、その隙間を見る側に自由に埋めてもらう。このやりかたなら発見など要らない上に、スペシャルなことをあちこちで引き起こせる。宮沢賢治論と自分の結果論から思いついた方法論だけど、つまり『日常は無限』ということなのだ。

グレーの解釈

なんとなくグレーについて語ろうと思う。うろ覚えなので具体名は書かないが、随分昔にA社が音楽CDのコピーガードをすることで話題になった。これの是非はともかくとして、そこにある建前が本音と一致してたらこの会社はバカだなーって思ってた。

 

その当時は丁度リッピングが当たり前になりつつある頃で、どこも何も対策を取らなければコピーされ放題になっていく可能性はあったと思う。結果的に今ではYouTubeもあり、サブスクリプション型の音楽サービスも多々あり、コピーガードという発想自体が古臭いものにはなった。

 

このYouTubeは間違いなくグレーだけど、個人的には全然アリだと思ってる。もしYouTubeがダウンロードリンクを付加したりしたら話は変わってくるけど、確かiTunes Matchが始まった時期と前後してソフトを使ったダウンロードもある程度規制された筈。

 

もしあの時期にこの措置を取らなければ問題があったとは思う。違法ダウンロードした音楽がiTunes Match側で全部ロンダリングされるからだ。僕は何事にもアウトか否かの線引きがあると思ってるけど、そこまで行くとまあアウトだろう。

 

グレーなものを全て根こそぎ叩き潰すスタンスは、建前としてはアリだけど、本音としてならバカバカしいものだ。僕がもし何らかの電子書籍を出版するとしたらコピーガードは付けるけど、内心ではある程度までなら「コピーどうぞどうぞ」と思ってるし、そこは建前な訳だ。

 

もしその建前がなければコピーしなかった買い手に申し訳ないというだけのことで、本音はまた別にある。今時YouTubeで音楽を聴いたことがない人なんてほとんどいないだろうし、ネットでニャンニャン画像を拾わない人もいない。自分がその側なのに、それを否定しようとは思わないのが本音なのだ。

 

建前は大きく取ってこそバランスされるというか、『全て撲滅』というスタンスを取っても実際の結果はその未満になる。ユーザーが「はい分かりました」と素直に聞く訳がないからだ。そこで100%撲滅が例えば50%撲滅の結果になり、それを良しとするならば、それが『本音』ということなんだと思う。

 

この『(アウトか否かの)暗黙の線引き』までなら僕はグレー行為はアリだと思ってる人間だ。例えば最近自分のサイトにYouTubeのグレー動画を時々張るけど、これがアウトだとは全く思わない訳だ。これはネットのユーザビリティにも通じる話で、グレーを一切排することなんて誰も望んではいない。

 

僕は現代のネットはユーザビリティの強いものに流れていく、言い換えれば昔よりユーザーの立場が強くなったと思ってるけど、そこにも一定の倫理のようなものがあって、無条件に我がままを言っている訳ではないと思う。それを許容するスタンスを取らないと、窮屈になるだけなのは目に見えている訳だ。

 

だから『グレー即悪』みたいな発想は違うと思うし、その発想を恐れて自らグレーを排するのも全く違う。ひとりが望んでいるものとみんなが望んでいるものはどこかで通じているし、言い換えればひとりだけが満たされる世界なんてみんな望んではいないのだ。

 

だから僕はグレー行為も常識の範囲でやるし、グレーがあってこそみんなハッピーになれると思ってる。この世界に絶対はないし、真っ白にも真っ黒にもなれないのは当たり前。そのなかで生きやすい生きかたをしていけたらいいなとは思っています。

everything to one thing.

アルマーニの「偽物が嫌いだ」という発言をたまたま見つけたが、『本物=だらしなさの対極』にあるなといつも思う。もしだらしない方向に本物があるのなら、本物は自動的に無限生産されるものということになるし、しかし本来自然状態に文化などない。

 

だらしないものと言えば、最初に思い浮かぶのがヒッピー。随分前にも言ったが、ヒッピーとはつまり『輝かないことで万人を隣人にする』ということだと思うんだけど、それは表面現象として相当短い期間でピークを終えただろうと予想する(正直詳しくない)。

 

だらしなくないものと言えば、ファッション、音楽、映画などのハイエンドに属するもの。そういう意味で一見だらしなく見えてフォーマルなのがピストルズランボー天井桟敷。フォルムとは結局のところ『有意な収束』だし、彼らはだらしなさ=無意な総体から決定的に抜きん出ている。

 

これらは『型を守って型に着き、型を破って型へ出て、型を離れて型を生む』の典型で、ヒッピーでもアンフォルメル(アート・アンフォルメルを含む)でもハイエンドに向かえばそれが型になっていく。意識の眠りというか意識の緩みというか、そういう状態から決して文化は生まれないのである。

 

例えば広告の世界は着用するスーツの縒れひとつにも拘り、シャツの皺ひとつにも拘り、起用モデルの選択からそのそれぞれの位置関係(構図)まで徹底的に拘っている筈で、その答は本来無限だが、答を『狙いと結果の一致』と定義するなら答は一定で、そこに向かって収束させなければならない訳だ。

 

『総体-無意な総体=有意な総体:答=100:1』であり、総体を有意な動きのみに彫刻していく行為はフォーマルだが、ただ闇雲に削るだけでは何ものにもならず、哲学から来る当たりだけがそれを有意に導くのだ。ならばインフォーマルなシュールやダダやアート・アンフォルメルが廃れるのは必然的。

 

『総体>無意な総体>有意な総体>答』という関係の大きい方向を目指すとはつまりそういうことなのだ。可能性は絞らなければ逆説的に可能性とは言えないし、正しいか悪いかは横に置いておいて、唯一的なところに向かうのが永遠の王道なのである。言い換えれば『フォルムは不滅』なのだ。

 

つまり『everything to one thing』。そしてそれこそが『the main thing』。これが1ならぬ2以上になると迷いや弛みがあることになり、例えば広告を作る度に違う表現に帰結し得る訳だが、現実的には1の近似が限界で、その限界方向に栄光があると僕は信じる。

 

そして無限の方向・反対方向に向かってインフォーマルに、だらしない状態になるのである。比喩的に言えばタイトロープウォーキングのロープの軸線上以外の動きはすべてインフォーマルで、有意にならず、軸線上を行くただそれだけが唯一有意であるような、フォルムとはそういうものなのだ。

 

もう少し現実的に言えばこのロープは透明で、且つ真っ直ぐではない。ゆえに哲学によって可視化しながら渡らねばならず、当てずっぽうで渡れる可能性があるのは最初の数歩のみ。つまり明らかな確信で以ってしか遠くへは行けず、それがないもののすべては地に落ちざるを得ないのである。

 

問題なのは有意な総体のなかから選び抜いた答が、今自分が向き合っている課題の答とは限らないことだ。栄光が大きければ大きいほどいいとも限らず、目標を敢えて限定しているケースもある筈だからだ。前者であればどのロープであれとにかく遠くへ行けばいいという話だが、そうもいかないし。

 

ただ僕が今日言いたかったのは、『本物=遠さの比喩』ということなのだ。この場合の遠さとは無意な総体からの遠さであり、そこから遠くへ行けば行くほど有意なものになる訳で、そういう意味では部屋の掃除も大切だし、アイロン掛けも欠かせないし、爪もこまめに切らなきゃいけないのである。

フォーマリズムとアンフォルメル

オリンピックというのは完全性に近づく行為だが、完全性そのものには全く面白みがない。例えば完全性はコンピュータで実行可能だが、理想のフォームをミニマルに寸分の狂いなく繰り返し、道の完全な中央を走り続ける100m走のCGがあっても、何が面白いのか。

 

つまり不可能なものを可能たらしめようと足掻く姿が『輝き』であり、可能なものを可能なままに享受する一切はその輝きの一切に勝てない。例えば貞操観念の高さと性的興奮の高さは比例するし、自らをオリンピックのように競技化することを僕は『不可能化』と呼ぶ。

 

オリンピックとその他一切の大会の勝利の違いというのは、完全性を目指すフォーマリズムの有無の違いで、例えば貞操観念の低い女性は完全性を目指さなくても性的対象になり得る。内輪だけで盛り上がる草野球みたいなもので、しかしその盛り上がりはフォーマリズムから来る盛り上がりには勝てない。

 

こんなものは理想論に過ぎないが、恋愛関係がやがて冷え切る相手とは結ばれない――そういうことがあるとすれば、それは不可能化する者同士の結びつきでしかあり得ない。つまりフォルムが必要で、自らを不可能化することとフォルムの志向は相即するし、でなければ自らの不可能化など成立する訳がない。

 

不可能化とその他一切を分かつものがフォーマリズムなら、その他一切を乱暴にアンフォルメルと分類することもできる。現実的にはアンフォルメルな恋愛の方が安心感があって僕は好きだけど、その安心感はあるいは仮初のものかもしれない。永遠があるとすればそれは三島が言うように、やはりフォルムだ。

 

不可能と可能の瀬戸際のところで邁進している人間が、その人間同士の結びつきが世界すべての上澄みの部分であり、楽園であるならば、やはりほんとうの楽園というのはそんなに安易なものじゃない。可能の中で遊ぶ可能性は、不可能に進む可能性よりか弱く、だから僕は最終的にダダが嫌い(になりたい)。

 

不可能の可能への反転、その刹那の甘い蜜、そして日常。つまりメロディアスな起点、ピーク、終点のこれらミニマルは、フォルムを志向するがゆえにほんとうのミニマルではない。つまりコンピュータライクではなく、揺らぎを前提としたIambic 9 Poetry的な不可能側の、人間側のミニマル。

 

言い換えれば同じフォームを走る分だけ繰り返すようなミニマルではない。Iambic 9 Poetryは同じような繰り返しに見えて、細かく見ればすべて細部が違っている。アンフォルメルサイドの人達はここが極めて似通ってくるというか、細部の徹底がない。つまりダダ漏れ、垂れ流しなのだ。

 

でもコンピュータがアンフォルメルという視点はなかなか面白いな。可能なことを可能なままにやっているだけ、という点ではその通りだし、それは絶対に有意閾値を超えることがない。だから僕は今はレイ・カーツワイルの思想にとても懐疑的。全部ではないだろうけど、大分滑ってる筈。

 

僕が言うところのフォーマリズムとはアンフォルメルに留まらないこと、不可能を可能たらしめる一切の活動だけど、そういうものが世界を面白くするのは間違いないし、ほんとうの最先端≒楽園のエミュレーションだなっていう気はする。コンピュータにはこれは真似できないという持論は多分、変わらない。

パイオニアの補正

なんとなく藤原ヒロシのことを考えていた。そんなに詳しくないんだけど、日本のDJの先駆けらしく、昔読んでたファッション雑誌のいろんなところに現れたものだ。しかし当然のことだけどパイオニアとベストプレイヤーは別だと僕は思っている。

 

ただ『ベストプレイヤー』という言い方だと、音の響き的にパイオニアを上回るという感じを受けるが、そうじゃない。ベストプレイヤーがパイオニアになることは先ずなく、即ちフォロワーとして存在し、パイオニアがベストプレイヤーになることも先ずなく、先行事実だけが彼の名誉なのだ。

 

でも事はそう単純でもない。例えば藤原ヒロシが予定していたプレイリストを他のDJがたまたまプレイしたとしても、藤原ヒロシと同等の評価には絶対にならない。これはある意味では当然なんだけど、そこには格闘ゲームのウメ補正に通じるスナップ作用が存在すると思う。

 

例えば著名人と一般人が同じ発言をしても、それが頭に残るのは前者の方。そしてその時は意味が分からなくても、生活していく節目で「あの言葉はこういうことだったのか」と覚る瞬間がある。でもこの現象が起きるのは著名人の言葉のみ。一般人の言葉は忘れてしまうからだ。

 

これをスナップ作用と呼ぶとして、頭に残り続ける言葉は生活のすべてと組織化し、やがて名言補正がかかる。それの最たるものがパイオニアであり、藤原ヒロシとか、糸井重里とか、宮本茂とかには、そういう力がある。そしてこの作用がパイオニアとベストプレイヤーを混同させていく。

 

つまり何が言いたいかというと、純粋な視点で観察すれば、ツイッターでもいいんだけど、著名人どころの騒ぎではない名言というのはあちらこちらに転がっていて、ただスナップ作用が働きにくいというだけのこと。そういうものがあるがままに評価されることは中々ない。

 

例外はあれ、僕は何事も未来に向かって完成されていき、後から出てきたものの方が強者だという考えを持ってるけど、オリンピックの世界記録なら数値化されるけど、そうではないものは着眼点がパイオニアに集中してしまう。人は自分の目で見ることを嫌うから、大きな目の見る世界に乗る。神と一緒だ。

 

もちろん先行事実はそれ自体が凄い才能で、肯定されて然るべきものだけど、すべてを超えてゆくものというような誤解も同時にあって、しかし世界を更新するのは後ろからの差し馬だというのが僕の認識。逃げ切るケースもあるかもしれないけど、死後永遠に追い抜かれることがないということは、ない。

 

そういう意味ではビートルズばかり聴く人とか、任天堂のゲームばかりプレイする人とかは、凄く損してると思う。オールタイムベスト系の記事になるとこれらは必ず大多数を占めるけど、あれがバラバラになる時代に生きてみたいもんだ。

遠くか否かが問題なのだ

無限性原理が導くのは『類似の最終的な無効化』であり、即ち類似は問題ではなく、遠くか否かが問題なのだ。例えば角度が1度違う直線が二つあるとして、それらはやがてお互いの隔たりをとてつもなく大きくしていくだろう。これはリニアだが、初期値鋭敏性を得る為には非線形のアトラクターに乗るべし。

 

何を以って非線形的かという判定をする時、偶然性をその基準にすることができると思う。例えば僕は日常であまりはっちゃけないが、これは必然性を大きく取っている証拠、なるべく予定調和で動こうとする証拠であり、逆に予定できない偶然性に身を委ねた人間の方が満面の笑みも出るのである。

 

ルーチンの枠外が偶然性だとすれば、そこにこそ現象の巨大化の可能性が生じる。ルーチンにドラマは何一つ生じないとしても、その枠外では何一つ確定できない何ものかが渦巻いている。そこに筋を通さなければアンフォルメル(純粋偶然性)だが、偶然性に筋を通せばそれはドラマに変わるのだ。

 

ルーチンの枠外の遠くに行けば行くほど、コントロール可能な最大値まで遠くに行くほど、ドラマ――現象の振り切れ――の大きさもまた大きくなる。コントロール不能な外国語での笑いは松本にも無理だが、コントロール可能な詩的言語=アンチルーチン的言語のアンチ性を高めるほどに、笑いは大きくなる。

 

偶然性に筋を通すというのは、言い換えればアンチルーチンが、あるいはヒューマニティーが未踏の因果律を成すこと、有意な何ものかに姿を変えること、バタフライエフェクト的に言えば竜巻に到ること、因の渦巻くアンフォルメルを超えること、果の彼岸に達すること、そういうことに他ならない。

 

偶然性はそれ自体では単なる『因』であり、『果』に達することでアンフォルメルを終える。因ばかりが不発的に断続するのがアンフォルメルであり、それが未踏の果に達することがドラマであり、この既視感とドラマの大きさは反比例する。そして既視感の大きい因は既視感の大きい果にスナップされやすい。

 

既視感の小さい因、即ち日常的言語から隔たった詩的言語は、スナップ先の果が極めて深遠である。言い換えればアンフォルメルに飲まれやすい絶海を目指せば目指すほど、果に達した時はドラマチックなのだ。ゆえにスナップ先が本来深遠であるところを間近に感じるところ、そこが偶然性の理想郷と言える。

 

因果が同じ岸にあることが必然性ならば、因果が此彼の岸に分たれていることが偶然性であり、その彼岸が隔たっていればいるほど達した時はドラマチックだが、そこはアンフォルメルの絶海であることを忘れてはならない。果に対して前者が惰性なら後者は運動であり、その遠くへゆけるのは万人が然り。

 

エロスの深みを極めていけば、即ち偶然性の理想郷で果の味を占め続ければ、此彼の振り幅はそのままに深く遠くスライドされ、即ち難易度は変わらないまま深く遠くへゆけ、その彼岸はアトラクターに乗らない者の此岸から遥か彼方まで隔たることになる。これは絶対性原理とは違う意味での『爆発』である。

 

絶対性原理の爆発はアトラクター自体がその限界を規定したもので、継続を前提に万人に約束されたものだ。しかし上記の爆発は個人個人に限られた鋭い爆発であり、ここにアトラクターの選民思想が生じるが、この場合の同アトラクターの初期値差も絶対性に帰結するのは絶対性原理によって保証されている。

 

即ち絶対性原理による絶対性の保証と、その絶対性の初期値鋭敏性の現れの獲得、この両立が今日のツイートで僕が目指してきたものであり、前者は全アトラクターに保証されているが、それを後者に高める為にはアトラクターを絞る必要があり、それが偶然性の理想郷というものに他ならないのだ。