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THINK ABOUT SOMETHING.

夢に敵無し

『ライバル(自分以外の夢)に勝てるか』という視点で言えばその限りではないが、『夢の障壁を越えられるか』という視点で言えば夢に敵はない。夢が夢未満の何ものかとぶつかっても、夢の側が必ず勝つという視点だ。そこで負ければ夢ではないことの証明なのだ。

 

セックスでもいいのだけど、それをしている最中は親友からの電話でも邪魔に聞こえる。世界全体の一大事よりも大切なことをしている意識があるから、何もかもを背にする=越えようとする訳だ。この心理状態が夢みるということの本質で、そうではないものは夢ではないのだ。

 

今自分の見ている夢がセックスのように快楽的でなければ、この心理状態には到らない。つまりオーガズムに迫っている実感がなければ、欲動の最高峰でないのならば、その他一切の欲動に敗れ得るし、『諦めるべきか』という発想が出てくること自体夢を見ていない証拠なのだ。

 

これはセックスの最中に『射精を諦めるべきか』と考える人間がいないようなもので、その発想が出てくること自体、実はセックスできていない只の空想であることの自覚の表れなのだ。言い換えれば『射精を諦めるべきか』ではなく『射精できるのかな』が本音で、これが夢みるものによくある自己欺瞞だ。

 

夢みる上で障壁はいくらでもある。それは金銭的な話であったり、将来性の話であったり、年齢的な問題であったりするけれど、本気でその全てを物ともしないならば、諦観も自己欺瞞もないのならば、それは本物の夢である可能性が高い。そういう『叶えられる夢』というのは誰もが持てる筈なのだ。

 

nujabesは「夢に打ち込んでいれば、ひたむきにそうであれば、その姿が味方を自然と作る」ということを言っていた筈だが、これは夢の方角に仲間が居るという意味だけでなく、その中でも応援したくなる人間の姿があるということを言っている筈。きっと夢みるという行為の本物がそれなんだろう。

 

まあこれは理想論めいた話だし、より高い欲動がより低い欲動を常に征するというのは嘘だ。ただ自分が言いたいのは、全てを越えられるということが夢の本質で、越えられなければそこまでの想いではないということで、またその想いを成り立たせる為にはその才能も絡んでくるという話なのだ。

 

後天的なものを否定する訳ではないが、僕は後天性に接続するのも結局は先天性から来ているというスタンスだ。以前も言っている筈だが、例えば僕が今から将棋で頂点に立つという夢は持たないし、そこには先天的なものが圧倒的に欠けている自覚がある訳だ。

 

先天性それ自体で才能が成立するということはあり得ないが、後天性に接続するものは総じて先天性(素養)を意識しているのだ。これなら自分は行ける、というところにしか人間は行かないし、そこで『継続は力なり』を体現すればいいし、その道の障壁という意味においては『夢に敵無し』なのである。

人間の振り幅

バランス論の延長。人間の『振れ』を見たくなったら、神経質なこと、言い換えれば『発散』ではなく『収束』をやるといい。例えば針の穴に糸を通すとか、全方位に動ける(発散)にも関わらず、一筋の動線に束ねる(収束)というようなことをやればいい。

 

これをすると先ず指が震える。そんな針はないと思うが、この針穴が広くなればなるほどこの震えは収まる。人間がスピーチなどで緊張するのも同じ原理で、フリートークではなく、言葉の展開が一筋に束ねられているのが原因なのだ。

 

このどちらの例にせよ、あまり震えたり緊張したりしない人は元々振れの少ない人だ。逆に一つの決められたところに向かう行為で震えや緊張が伴う場合、それが鮮明なほど振れが大きい人ということになる。そして人間の器量の大小は、この振れの大小と反比例関係にあると思う。

 

基本、器の大きい人というのは細かいことを気にしないし、何をするにしても答が広い。悪く言えば「何でもいいやん」という雑な発想になりがち。だからこそ相手のことを何でも許せるし、決まり決まった発想をしないし、その時々でその人なりの最適解を出すところがある。

 

反対にこの振れが大きい人は細かいことを気にするし、ストレスをためやすい繊細な性質を持っている。イメージ的には大きなメトロノームがあって、外からの些細な刺激でその振れが跳ね上がるような感じ。その振れを押さえ込むことに慣れ過ぎていて、いつまで経っても本来の自分を出せないケースも多い。

 

しかしこれは僕は『爆発力の裏返し』だと思うし、岡本太郎の『芸術は爆発だ』に通じるものがあるように思う。言い換えればこの振れの小さな人、即ち器量の大きな人から素晴らしいアートはなかなか生まれないのではないか。この仮定が正しいのなら、芸術性と器量というのは基本、反比例の関係だ。

 

『神は細部に宿る』と言うが、内的に暴れるような振れを持った人間の静寂、つまり一筋に束ねようとした時の爆発力は、この言葉へと通じているのだと思う。芸術がほんとうに爆発ならそれは岡本太郎が言うように静寂でしかあり得ないし、心の震えは感動を知っているのだ。

 

仮にこの内的な振れ・震えを育てられるとすれば、何事にも真剣に取り組むことしかないと思う。ひとつひとつのことを厳密に、正確にこなし、すべての細部に神を宿す。子どもが大人に向かって緊張を高めていくのも、このフォーマルになっていく仕組みと関係しているように思う。

 

裏を返せばやはり、人は振れを大きくできる。フォーマルになっていくに従って、人間性の幅ができてくる。ヒッキーを否定する訳じゃないけど、僕のひきこもり時代が人間的につまらないのはつまりそういうこと。アンフォルメルには何の振れもなく、正直つまらないのだ。

 

僕はだから安易な逆転の発想よりも、純粋な正攻法を愛する。フォーマルになっていくところに人間の真価があるということを信じる。ランダムウォークは何も生まないし、ブレイクダンスなんて踊りっこない。つまり価値の閾値はフォーマルでしか越えられないのだ。

エンド・オブ・バランス

繊細でったり美麗であったりする旋律って、それに対応する繊細であったり美麗であったりする人間の音楽という固定観念が先ずあって、対照的な強者がそのタッチに触れることは、音楽史に詳しくないけどあまりないように思う。

 

ところで僕が最近よく考えるのが『振り切れ』という言葉だ。振り切れというと何かの究極ないしはその対極、というイメージだけど、『バランスという振り切れこそ至高』という実感が僕のなかにあるのだ。

 

例えば完璧な人間を目指して『完璧な人間などいない』という反発力にぶち当たるとしよう。そこからゼロ地点に翻って、今度はゼロ地点の『何もしない訳にはいかない』という反発力が浮力になるとしよう。すると中間のどこかでバランスされる訳だけど、本当の究極とはそのバランス感覚だと思うのだ。

 

これはただの仮定だけど、中間のどこかに黄金の落としどころがあるとして、上記のそれぞれの振り切れ地点の反発力は、中間に行けば行くほど効力を失うか、あるいは効力が安定せず浮力が上下する。そこをソリッドに確定させるのはその地点ごとの『具体性』だ。

 

この地点で下に落とすにはこのロジック、上に昇らせるならこのロジックという感じで、具体的な言葉だけがその効力を発揮する。そうやって究極の中間地点をソリッドに確定させるのが、僕が思うところのフォーマルな生き方。例えばタイトロープダンシングにおいて、右と左の振れというのは意味がない。

 

世界は元々そういう繊細で美麗な構造を持っていると思う。右でも左でもない、バランスという振り切れの連続体。それだけが肉体も精神をもスペシャルにできる訳で、それ以外はすべてアンフォルメルという考え方を僕は信仰している。ボディービルやボクシングの肉体・体重調整でこれは顕著だと思う。

 

つまりケースバイケースの効力を自分に効かせ続けることが、最初はつらくても、最後は最高のカタルシスに通じるという信仰。バランスという振り切れに自分をフォーカスしていき、自分にだけできるタイトロープダンシングを見つけ出す。綱渡りには人間の真髄のすべてが象徴されているのだ。

 

ちなみにパンクのシャウトにもバランス感覚は宿る。言い換えれば、本能にもバランス感覚は宿る。そうでなければシャウトするだけでみんなロックスターになってしまうし、そこにはバランスを極めたもの以外の淘汰が存在する。だから『崩す』ということにもフォーマルになるか否かの瀬戸際がある訳だ。

 

その瀬戸際=究極の中間地点を手に入れることがフォーマルな生き方=オリンピック的な世界観ということになる。人間は壮大な世界観ばかりでは生きられないけど、理想論としてはこの考え方を僕は原点に据えている。踏襲するにしても崩すにしても、そこまで行かなきゃ最高ではないのだ。

 

最初の話に戻そう。僕は以下の動画が気に入ったけど、ここにも最初に書いた固定観念の『崩し』があるように思う。ジャジーヒップホップ的には今更感のある指摘だと思うが、むしろ『強者だからこそ』それをバランス的に崩せたのだと思うのだ。

 

www.youtube.com

 

僕はバラードであろうがギャングスタラップであろうがバランスを極めれば最高の価値が宿ると思うが、そういう領域にこの動画は存在している。世界は基本、儚いものだ。そういう刹那的な栄光を比喩している、言い換えれば僕らは光を瞬間でしか描けないことをシャウトしている。これはそういう動画だ。

 

最終的に僕が言いたかったのは、弱者もバランスを極めれば強者だし、強者もバランスを極めなければ強者ではないということだ。『力を発揮する』というのは『バランスする』ということの言い換えだし、タイトロープダンシングほど極端ではないにせよ、僕らは平均台の上を歩み続けるのだ。

 

踏み外せばすべてアンフォルメル(0)。渡り続ければそれだけがフォーマル(1)。この極論めいた二進数の“1”だけが世界を動かし、歴史を描き、“0”のすべては歴史にはなり得ても歴史を描く手は持ち得ない。だからこそ僕は“0”から“1”へのディシプリンを愛し、その最果てを信じるのである。

第53回宣伝会議賞に際し思ったこと

最近、第53回宣伝会議賞の作品を考えてばかりいる。

 

何年か前に確か15件ぐらい出したのかな、それが全部玉砕したのもあって、その翌年とかは素通りしてしまったのだけど、今年はまた頑張ろうと思って取り組んでいるところだ。

 

そこで思ったのが、言葉に対する感動の閾値がずいぶんと上がっているな、ということだ。

昔なら「これ送りたい!」という感じで拾ってしまうようなコピーも、今は余裕で捨てまくっている。

逆に言えば多作は不可能だけど、ほんとうに心からいいと思えるものだけを残せるようになった気がするのだ。

 

さて、独り言で終わりそうな気もするが、この『捨てるときは素早く、取るときは奥深く』を基本態度に据え、いくつか作品を書いてるうちに思ったことでも書こう。

 

寺山の言葉で『天才だけが遠くへゆける』というものがある。

『コピーライティング=誰にでも手の出せる創作』とするのは言い得て妙だが、ファイナリストぐらいの段階になると『誰にでも』という訳にはいかない。

つまりこの言葉は、結局のところコピーでも同じように当てはまると思うのだ。

 

ただ、他の創作の例えば小説なんかと比較して、コピーには『言葉の本質的な部分は身近』という特徴がある。

つまり言わんとしていること自体は遠くなく、但し『遠くない=当たり前のことでしかない』ということでもあるから、それを謎かけっぽくしたり、見る角度や言い方を独創的にすることでオチを伏せ、読後にカタルシスを与える。

当たり前の日常が構図の切り取りやそのエディットによって、素晴らしい写真に昇華されるようにだ。

 

一番注意すべきだと思うのは、多分、コピーを読んでいる途中で最後までの内容を先読みされてしまってはいけない、ということで、先読みできてしまうということは『抜け』がないのだ。

誰にでも思い浮かぶような内容だから誰にでも先が読めてしまう、というところから群を抜いていない訳で、主語と述語の関係が説明に終始するようなコピーにこれは多い。

 

例えば『AはA’です』とか言われても、ダッシュがついただけでは何の驚きもないし、誰にでも先が読める。

これを『AはZです』ぐらい言い切ってしまって、それでもイコールが成立するような言葉のエディットがあれば読後のカタルシスが起きる。

この場合のZというのは『Aとは全く違うもの』という意味ではなく、文面がAの近似からはかけ離れているのに意味合いは同じ、というようなもので、文面上の近似というのは『Aを易々と想起できてしまう内容』というようなものだ。

具体的にはAが名詞なら名詞で、動詞+名詞なら動詞+名詞で、形容詞+名詞なら形容詞+名詞でイコール化し、つまりAと同じ品詞構成でイコール化し、且つそれが初歩的な類語であるとかね。

 

過去の受賞作の『家は路上に放置されている。』も前後が説明関係なんだけど、これは『着眼点の驚き』があるからこそ成立していて、つまり『Aは~です』の述語は言い方ひとつではないし、それを見事な言い方にまで昇華させている。

つまり『家(A)』の説明を別の品詞構成で閉じている上、それが『家』を易々と想起できてしまう内容ではないから(『家』の部分を伏せたら謎かけになり得る)、『(この説明は)Z的』ということなのだ。

でも上述した『言葉の本質的な部分』はこのコピーでも身近で、『家はずっと同じ場所です』という当たり前のことを見方(自分の場合グーグルアースを想像する)や言い方を変えることで当たり前にさせない訳だ。

 

また、偶数的なコピーも先を読まれることが多い。

言わば『恋はA。愛はB。』とかそういう類のコピーだ。

この構成の時点で『愛は』の後にAに似つかわしくないものを持ってくることは先ず読まれる。

同時に『かけ離れていればいるほどなるほど感が出る』というのも、まあ結局は読まれるので、Aの対義語まで行かなかったとしても、少なくともAの類語周辺は線から消える。

もし『恋は仮初。』と来たら、もう『愛は永遠。』になるのはほぼ鉄板な訳だ。

 

上手く言葉にできないのだが、ただの左右対称になっているだけで、左を読めば右が、右を読めば左が読めるというこの偶数構成は、読後の驚きが起こりにくい(起こらないとは言わない)。

『対義語、対義語。』という構成だけでなく、『類語、類語。』という構成でもこれは同じことで、これを『対義語、対義語、非対義語。』や『類語、類語、非類語。』という奇数構成に変えれば、最後の奇数がオチになる訳だ(左右対称が破壊される)。

これについては『おとなもこどもも、おねーさんも。』が一番分かりやすいと思う。

 

 確かビートたけしが言っていたことだが、映画を撮り始めた当初勝手が分からないから、とりあえず今まで観てきた映画で「これはしてはダメだ」と思ったことを、全部避けて撮るというやり方をしたらしい。

『名コピーの作り方』とかいう本が仮にあったとしても、名コピーが一回性なら方法論も一回性のはずで、つまりそこにはもう旨みがない。

だから唯一できることは、ビートたけしのように『禁則を決めることで打率を上げる』ということだと思うし、これってあらゆるスポーツの基本なのだ(脱線するから説明はしない)。

 

結論としては、本質は常に身近だとして、そこから(表現の)遠さそれ自体を目指しても路頭に迷うだけなので、『オチを伏せる(先を読ませない)』というところに重点を置けば結果的にそれが遠さになる、ということを念頭に置けばいいと思う。

『これが来たら次はこれ』と相場が決まっているところに驚きはないので、その相場からの『外し』を置くか、相場観がそもそもないところに行くかのどちらかを目指せたら理想的。

 

とにかく今年は本腰入れて、じぶん、頑張るべし。

創作方法論

例えば『人々』というただそれだけのことを『Understar Mages(星の下の魔法使いたち)』と言い換えれば雰囲気が出る。この時『人々≒Understar Mages』な訳だが、『=』ではなく『≒』なところがミソで、あまりに=から離れ過ぎるとそれは原像のモザイクになる。

 

吉本隆明が「宮沢賢治の作品は特異な視線に切りとられた景観の、言葉によるモザイクという領域を出ようとはしなかった」と書いているけど、=と≠の狭間の≒のパーセンテージをどこに置くか。宮沢賢治は確かにこれがモザイクレベルと言えるところまで外している気はする。

 

何かを表す時=が必ずしも答ではないし、端から端まで≠ではそもそもそれを表す意味がない。≒以上のこと――つまり=になること――はできないし、=の限りなく近似の≒を意図的にアウトフォーカスして=から離し味を出すテクニックもあると思う。

 

原像の100%の表現が=に値するとして、80%ぐらいまでの表現(≒)は順当というか、驚きがほとんどない。周知のことを周知の表現で差し出されても「それで?」となるだけなのは目に見えているし、これを50%ぐらいの表現にまで落とすというか、意図的に断片化するのもひとつの手ではある。

 

例えば小説。全体を読んでこそその小説の像が最も明瞭になるのは分かりきっていることだが、ひとつひとつの文章の断片はその像の隠喩にはなっているだろう。つまり、その瞬間瞬間が≒である訳だ。しかしそれでは受け手により振り幅があるので足らずを埋め、像を狭くフォーカスしていく訳だ。

 

これを敢えて断片だけを提示し、最初は理解されなくても徐々に原像が見えてくるような、人それぞれの人生と共に紐付いていくようなやりかた。即座に分かるのではなく、立ち止まって考えて初めて50%が80%や90%に昇るような、むしろ隠喩こそが100%に最も近づくかのようなやりかた。

 

原像自体が独創的な場合、=の近似のまま提示しても驚きはあるし、これを更に隠喩してしまうのは段階をすっ飛ばしていることになる。アメリカ大陸を発見した人間がそれを詩にしても意味が通じないようなものだ。だからこの場合ストレートでいいと思うし、でもそんな発見は無数にはない訳だ。

 

だから敢えて足らずを作り、心地良い間を生み出し、その心地良さのなかでそれぞれがキラキラしたものを埋めていく。原像そのものよりもこの間の心地良さを目指す、言い換えれば、スペシャルなものそれ自体を表現するのではなく、スペシャルなものを隠喩に宛がうピースへと落とし込む。

 

更に言い換えれば、詩的言語で日常言語を上書きする。この場合の詩的言語というのは異化作用があって、それ自体でスペシャルな言語を指し、その言語についての詩を書くのではなく、その言語によって日常を隠喩する。これならばその言語を使う必然性を無数にあらしめ、異化作用を躍らせることができる。

 

『星』は詩では比較的よく出る単語だと思うが、その異化作用はただ置くだけでは働かない。この時深みへと到るような描写でその異化作用を引き出すか(ダメージドされたゴールデングース)、あるいは素描でスペシャルになる大発見をするか(そのままのベイプスタ)の次の、第三の選択肢。

 

日常のすべてに星や天使や魔法使いを(必然的に)配し、その隙間を見る側に自由に埋めてもらう。このやりかたなら発見など要らない上に、スペシャルなことをあちこちで引き起こせる。宮沢賢治論と自分の結果論から思いついた方法論だけど、つまり『日常は無限』ということなのだ。

グレーの解釈

なんとなくグレーについて語ろうと思う。うろ覚えなので具体名は書かないが、随分昔にA社が音楽CDのコピーガードをすることで話題になった。これの是非はともかくとして、そこにある建前が本音と一致してたらこの会社はバカだなーって思ってた。

 

その当時は丁度リッピングが当たり前になりつつある頃で、どこも何も対策を取らなければコピーされ放題になっていく可能性はあったと思う。結果的に今ではYouTubeもあり、サブスクリプション型の音楽サービスも多々あり、コピーガードという発想自体が古臭いものにはなった。

 

このYouTubeは間違いなくグレーだけど、個人的には全然アリだと思ってる。もしYouTubeがダウンロードリンクを付加したりしたら話は変わってくるけど、確かiTunes Matchが始まった時期と前後してソフトを使ったダウンロードもある程度規制された筈。

 

もしあの時期にこの措置を取らなければ問題があったとは思う。違法ダウンロードした音楽がiTunes Match側で全部ロンダリングされるからだ。僕は何事にもアウトか否かの線引きがあると思ってるけど、そこまで行くとまあアウトだろう。

 

グレーなものを全て根こそぎ叩き潰すスタンスは、建前としてはアリだけど、本音としてならバカバカしいものだ。僕がもし何らかの電子書籍を出版するとしたらコピーガードは付けるけど、内心ではある程度までなら「コピーどうぞどうぞ」と思ってるし、そこは建前な訳だ。

 

もしその建前がなければコピーしなかった買い手に申し訳ないというだけのことで、本音はまた別にある。今時YouTubeで音楽を聴いたことがない人なんてほとんどいないだろうし、ネットでニャンニャン画像を拾わない人もいない。自分がその側なのに、それを否定しようとは思わないのが本音なのだ。

 

建前は大きく取ってこそバランスされるというか、『全て撲滅』というスタンスを取っても実際の結果はその未満になる。ユーザーが「はい分かりました」と素直に聞く訳がないからだ。そこで100%撲滅が例えば50%撲滅の結果になり、それを良しとするならば、それが『本音』ということなんだと思う。

 

この『(アウトか否かの)暗黙の線引き』までなら僕はグレー行為はアリだと思ってる人間だ。例えば最近自分のサイトにYouTubeのグレー動画を時々張るけど、これがアウトだとは全く思わない訳だ。これはネットのユーザビリティにも通じる話で、グレーを一切排することなんて誰も望んではいない。

 

僕は現代のネットはユーザビリティの強いものに流れていく、言い換えれば昔よりユーザーの立場が強くなったと思ってるけど、そこにも一定の倫理のようなものがあって、無条件に我がままを言っている訳ではないと思う。それを許容するスタンスを取らないと、窮屈になるだけなのは目に見えている訳だ。

 

だから『グレー即悪』みたいな発想は違うと思うし、その発想を恐れて自らグレーを排するのも全く違う。ひとりが望んでいるものとみんなが望んでいるものはどこかで通じているし、言い換えればひとりだけが満たされる世界なんてみんな望んではいないのだ。

 

だから僕はグレー行為も常識の範囲でやるし、グレーがあってこそみんなハッピーになれると思ってる。この世界に絶対はないし、真っ白にも真っ黒にもなれないのは当たり前。そのなかで生きやすい生きかたをしていけたらいいなとは思っています。

everything to one thing.

アルマーニの「偽物が嫌いだ」という発言をたまたま見つけたが、『本物=だらしなさの対極』にあるなといつも思う。もしだらしない方向に本物があるのなら、本物は自動的に無限生産されるものということになるし、しかし本来自然状態に文化などない。

 

だらしないものと言えば、最初に思い浮かぶのがヒッピー。随分前にも言ったが、ヒッピーとはつまり『輝かないことで万人を隣人にする』ということだと思うんだけど、それは表面現象として相当短い期間でピークを終えただろうと予想する(正直詳しくない)。

 

だらしなくないものと言えば、ファッション、音楽、映画などのハイエンドに属するもの。そういう意味で一見だらしなく見えてフォーマルなのがピストルズランボー天井桟敷。フォルムとは結局のところ『有意な収束』だし、彼らはだらしなさ=無意な総体から決定的に抜きん出ている。

 

これらは『型を守って型に着き、型を破って型へ出て、型を離れて型を生む』の典型で、ヒッピーでもアンフォルメル(アート・アンフォルメルを含む)でもハイエンドに向かえばそれが型になっていく。意識の眠りというか意識の緩みというか、そういう状態から決して文化は生まれないのである。

 

例えば広告の世界は着用するスーツの縒れひとつにも拘り、シャツの皺ひとつにも拘り、起用モデルの選択からそのそれぞれの位置関係(構図)まで徹底的に拘っている筈で、その答は本来無限だが、答を『狙いと結果の一致』と定義するなら答は一定で、そこに向かって収束させなければならない訳だ。

 

『総体-無意な総体=有意な総体:答=100:1』であり、総体を有意な動きのみに彫刻していく行為はフォーマルだが、ただ闇雲に削るだけでは何ものにもならず、哲学から来る当たりだけがそれを有意に導くのだ。ならばインフォーマルなシュールやダダやアート・アンフォルメルが廃れるのは必然的。

 

『総体>無意な総体>有意な総体>答』という関係の大きい方向を目指すとはつまりそういうことなのだ。可能性は絞らなければ逆説的に可能性とは言えないし、正しいか悪いかは横に置いておいて、唯一的なところに向かうのが永遠の王道なのである。言い換えれば『フォルムは不滅』なのだ。

 

つまり『everything to one thing』。そしてそれこそが『the main thing』。これが1ならぬ2以上になると迷いや弛みがあることになり、例えば広告を作る度に違う表現に帰結し得る訳だが、現実的には1の近似が限界で、その限界方向に栄光があると僕は信じる。

 

そして無限の方向・反対方向に向かってインフォーマルに、だらしない状態になるのである。比喩的に言えばタイトロープウォーキングのロープの軸線上以外の動きはすべてインフォーマルで、有意にならず、軸線上を行くただそれだけが唯一有意であるような、フォルムとはそういうものなのだ。

 

もう少し現実的に言えばこのロープは透明で、且つ真っ直ぐではない。ゆえに哲学によって可視化しながら渡らねばならず、当てずっぽうで渡れる可能性があるのは最初の数歩のみ。つまり明らかな確信で以ってしか遠くへは行けず、それがないもののすべては地に落ちざるを得ないのである。

 

問題なのは有意な総体のなかから選び抜いた答が、今自分が向き合っている課題の答とは限らないことだ。栄光が大きければ大きいほどいいとも限らず、目標を敢えて限定しているケースもある筈だからだ。前者であればどのロープであれとにかく遠くへ行けばいいという話だが、そうもいかないし。

 

ただ僕が今日言いたかったのは、『本物=遠さの比喩』ということなのだ。この場合の遠さとは無意な総体からの遠さであり、そこから遠くへ行けば行くほど有意なものになる訳で、そういう意味では部屋の掃除も大切だし、アイロン掛けも欠かせないし、爪もこまめに切らなきゃいけないのである。