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THINK ABOUT SOMETHING.

イメージの動体

若い頃というのは、絶対に交際できないという前提を無視した理想の相手を想定しながら自慰をする。性器を羅針盤に性的興奮を検索し、最高峰のそれで自慰する訳だけど、『世界に二度と同じことは起こらない』という前提で行けば、この自慰は絶対に再現できない。

 

つまり日々似たり寄ったりの自慰をしながらも、日々若干の差異を生み出していく。言い換えれば理想が日々すり替わり、その中で性的偶然性が開き、俗には『目覚める』とかいう言い方をするけど、思いも寄らなかったフェティッシュに目覚めていく。そしてまた理想がすり替わる訳だ。

 

噛み砕けば自慰はセックスと違って妥協する必要がないから、常に性的興奮の最高峰を見出そうとする訳だけど、歴史の一回性により、その見出そうとするものが毎回微妙に変容していくということだ。イメージとしては究極の点(理想)があって、そこを中心とした円周上をうろついているイメージ。

 

但しこう書くとその円周上をぐるぐる回り切れるイメージになるが、そうではない。この円の直径は確かに狭いだろう。広ければあらゆる性癖を包括してしまうからね。但しその狭い直径から来る全長の短い円周において、(僕が考える世界の無限性により)全ての性癖を認識することは絶対にない。

 

つまりミクロな視点では円周上の隣の性癖が全く違う性癖を示し得る訳で、その隣の性癖も同様にそうなる訳だ。円周の全長は有限でも、その一点一点は無限に細分化でき、且つその一点一点の全てが全く違う性癖を示し得る。そしてその一箇所に留まることはできず、絶えずぐるぐるせざるを得ない。

 

これこそが『性癖の変容の一メカニズム』ではないか。もちろん現実的になるとか、飽きが来るとか他にもメカニズムは働いていて、要因を一つに還元はできないけど、このメカニズムの存在は仮に真なら大きいと思う。まあ簡単に言えば『万物は流転する』ということを言ってるんだけどね。

 

おそらく推敲の仕組みもこれだよね。頭の中でイメージがあって、それを一度言葉にする。もう少しいい言葉にしようとして、またイメージを思い出す。でも世界に二度と同じことは起こらないから、このイメージは微妙に変容する。それに対し見出す言葉も同時にぐるぐる変容する。

 

ここにも究極の点(理想)があって、その周りをイメージが渦巻いている訳だけど、この時隣にあったイメージが元のところのイメージと全く違う世界観を示し、それが魔法的になるということは起こるのだ。僅かな言葉の組み合わせの差異により、遥かなイメージの変化を見せるということは起きるのだ。

 

仮に世界に同じことが二度起きる、あるいは起こせるのなら、そこに万物は留まり、流転しなくなるかもしれない。そういう意味では『万物は流転する=万物は推敲する』ということでもあるし、より高次の世界に行ける今の世界構造も僕は好きだ。もちろん永遠平和的な世界観に留まりたい心理もあるけどね。

 

僕の好きなコピーライティングもこの『隣のスペシャルを見出せるか』にかかっていると思う。魔法使いならぬ、言葉使い。それは性癖の変容・推敲のメカニズムと同じところから来るもので、隣のところならぬ大それたところに行くのはむしろ『邪道』なのだ。神は細部に宿るに反逆している訳でもあるし。

 

肉眼の解像度は年々衰えていくが、心眼の解像度は年々増していく。それに伴って隣のスペシャル・細部のスペシャルも見出せるようになっていく。この解像度の増加にも『差異にならざるを得ない』というルーマン的なものが絡んでいるように思うし、日々の差異が世界を次第に開けさせる。

 

こういう文章を書けていること自体、僕の世界が次第に開けて行ってる証拠。永遠平和的な世界観に留まっていたら永遠に書けることのない世界を示している実感があるし、差異によってここまでやって来たのだ。だからこれからも差異と上手く付き合い、僕の世界観をもっと開けて行けたらな、と思った。

可能と不可能のアウフヘーベン

『絶対はない』という前提から開始した場合、世界は二値にならないので、『impossible is nothing』を0と1と9で記述することができる。初めに0.XX...XをA(可能性)、0.YY...YをB(不可能性)とする。

 

A+B=1とした場合、X=0且つY=9の時その位は否定、X+Yで位が繰り上がる時その位は肯定を表す。この肯定の位のXとYは不確定だが、至高性に還元するのであればX=1且つY=9でしかあり得ず、その場合過去の肯定は妥協を表し、最後の肯定だけが完成を意味する。

 

これは寺山の天才論でもあるのだが、この0と9の対峙を繰り返した最果ての1と9がimpossible is nothingの彼岸であり、この彼岸が小数点から遠ければ遠いほど天才を表すが、このどうしようもなく果てしない1への収斂をメルクマールにしてみた。今のHPのアイコンがそれ。

 

発想の起点は単純だ。文字を異化する時、フォントを変えるのが手っ取り早いが、それよりも異化を強める方法は数字を使うことだと思った。文字で言うことを数字に集約し、且つそれが何かとてつもなく素晴らしいことの比喩であること。そう考えるとこのメルクマールしかなかったのだ。

 

これを自分の文学では『幽かと遥かの対峙する岸』と表現しているが、何かここからあらゆるものを紐解けそうな直観を掴みかけている。天才論で使えるのはもちろんのこと、キリストやベルセルクのフェムトがここに表れていると見ることもできる。

 

但し僕はアディダスのimpossible is nothingにはとても懐疑的だ。ではここまで書いてきたことは何なのかということになるが、『矛盾するもの以外不可能はない』という言い方ならこの言葉も成立する。つまり前に歩きながら後ろに歩くことは不可能なのだ。そう、不可能はあるのだ。

 

既知にするスピードを上回る速度で知が創発される世界で全知全能になるのも不可能だし、しかし矛盾ではない夢は全て可能というスタンスを僕は示す。それが少数点からどこまで遠いものかとか、現代で可能かどうかとかいう話は横に置いておき、dreams come trueのスタンスを僕は取る。

 

このメルクマールを文字に置き換えれば『全ての夢は叶う』だ。そう、最後の最後は必ず1に収斂するのだ。では僕らが何に気をつけるべきかというと、『矛盾した夢を持たない』ということで、この矛盾という言葉の定義をより深める必要があるなと思った。

 

厳密にはこうだ。(矛盾がない限り)どんなに不可能に思える事柄も、絶対がない限り可能・不可能という二値にはならないので、可能性は存在するという言い方になるだろう。それは0と1と9で表され、最後に浮上する1が9の無限を終わらせることが可能性への到達であり、後は彼自身の問題なのだ。

差異とアウフヘーベン

こいつには敵わないという相手の下位で棲み分けするのではなく、こいつには敵わないという相手と水平に棲み分けすること。世界はこの意味での水平移動において無限なのである。

 

つまり垂直移動――ボルトを頂点にその下位を万人が走るようなもの――は有限で、頂点あるいは限界を越えることがあり得ない。人が100mを5秒で走る時代は生身である限り永遠に来ないし、オリンピックの勝者をピークとした有限構造こそが垂直移動なのだ。

 

何故こんなことを考えたのかと言うと、最近ルーマンの社会システム理論について噛み砕いて聞かせてもらう機会があり、その『差異』という考え方と『アウフヘーベン』という考え方が相容れ得るか、という疑問が生じたのだ。僕はヘーゲルを何も読んでないけど、これは垂直移動に適用できると仮定する。

 

如何なる修練を積み、如何なる食生活をし、如何なるフォームで走るかという議論は垂直移動だ。つまり統一性に達する。オリンピック選手が総じて同じ動きに見えるのはアウフヘーベンされた証拠だし、そこから外れれば必ず記録は退行する。僅かな差異の生き残りは世界に漂う偶然性の言い換えに過ぎない。

 

つまり外的なもので内的なものではない、言い換えれば偶然的なもので必然的なものではない、あるいは現実であって意志ではない。路上の凹凸であったり、風であったり、喧騒であったりするものの総称がそれで、意志そのものは別にあるのだ。即ち差異は内的には無きに等しいのである。

 

もし統一性なんてものがあればテーマ化されたコミュニケーションは収斂すると友だちは断じたが、実態としてコミュニケーションは永遠であり、それをどう捉えるか。例えば『速さは正義だ』という思想があって、その異論が無限に創発されるという考え方に僕は異論しない。

 

これは『速さ』という言葉の定義が先ず以て広過ぎて、それをワンワードの述語で紐付けた場合、逆説が無限に創発されるのは当たり前だからだ。性善説とか性悪説とかもその類で、『人は善だ』とか『人は悪だ』とか言い出すと、見解は無限に創発されて当然な訳だ。するとここにカテゴライズが始まる。

 

『その速さは正義』『この速さは恥』という類に、細分化されていくごとにその銘名が矛盾なく断じれるようになる。つまり差異が死んでいく訳だけど、異論の余地のない然る統一性の領域は、今日の冒頭のツイートの『こいつには敵わない』という部分に相当し、その下位での差異は差異ではなく誤謬だ。

 

究極にフォーカスされた微視の世界には統一性なるものが、あるいはその近似が存在するように思う(その速さはXでもYでもなくZ)。対してその水平の差異は『差異を差異に変換する』というルーマンの言説に接続できるように思う(その速さはZでありこの速さはA)。

 

つまりアウフヘーベンも差異も棲み分けができているのだ。前者は垂直移動として有限に、後者は水平移動として無限にコミュニケーションを続けていくのである。

 

全知全能の不可能性は万人のテリトリーを万別に約束する。つまり完璧になれないからこそ誰もが約束の地に行ける(=救われる)のだ。これは僕が思うに先天性信仰に通じ、何故なら後天的に届くところに万人のテリトリーがあれば万別(固有)のものではなくなるからで、矛盾となり、不可侵ではなくなる。

 

この『私以外の総てに対する私(最たる差異)』とでも言うべき固有値アウフヘーベンさせる。それを見つけ出すことは並大抵のことではないが、理論的には万人にそれが必ず存在する。実態的には水平移動(差異の差異への変換)を繰り返すうちに自然とフィットするもの、というのが自分の実感ではある。

 

要は『押してダメなら引いてみろ』を360度に100万回繰り返せば、大抵のものは並大抵のものではなくなるのである。

夢に敵無し

『ライバル(自分以外の夢)に勝てるか』という視点で言えばその限りではないが、『夢の障壁を越えられるか』という視点で言えば夢に敵はない。夢が夢未満の何ものかとぶつかっても、夢の側が必ず勝つという視点だ。そこで負ければ夢ではないことの証明なのだ。

 

セックスでもいいのだけど、それをしている最中は親友からの電話でも邪魔に聞こえる。世界全体の一大事よりも大切なことをしている意識があるから、何もかもを背にする=越えようとする訳だ。この心理状態が夢みるということの本質で、そうではないものは夢ではないのだ。

 

今自分の見ている夢がセックスのように快楽的でなければ、この心理状態には到らない。つまりオーガズムに迫っている実感がなければ、欲動の最高峰でないのならば、その他一切の欲動に敗れ得るし、『諦めるべきか』という発想が出てくること自体夢を見ていない証拠なのだ。

 

これはセックスの最中に『射精を諦めるべきか』と考える人間がいないようなもので、その発想が出てくること自体、実はセックスできていない只の空想であることの自覚の表れなのだ。言い換えれば『射精を諦めるべきか』ではなく『射精できるのかな』が本音で、これが夢みるものによくある自己欺瞞だ。

 

夢みる上で障壁はいくらでもある。それは金銭的な話であったり、将来性の話であったり、年齢的な問題であったりするけれど、本気でその全てを物ともしないならば、諦観も自己欺瞞もないのならば、それは本物の夢である可能性が高い。そういう『叶えられる夢』というのは誰もが持てる筈なのだ。

 

nujabesは「夢に打ち込んでいれば、ひたむきにそうであれば、その姿が味方を自然と作る」ということを言っていた筈だが、これは夢の方角に仲間が居るという意味だけでなく、その中でも応援したくなる人間の姿があるということを言っている筈。きっと夢みるという行為の本物がそれなんだろう。

 

まあこれは理想論めいた話だし、より高い欲動がより低い欲動を常に征するというのは嘘だ。ただ自分が言いたいのは、全てを越えられるということが夢の本質で、越えられなければそこまでの想いではないということで、またその想いを成り立たせる為にはその才能も絡んでくるという話なのだ。

 

後天的なものを否定する訳ではないが、僕は後天性に接続するのも結局は先天性から来ているというスタンスだ。以前も言っている筈だが、例えば僕が今から将棋で頂点に立つという夢は持たないし、そこには先天的なものが圧倒的に欠けている自覚がある訳だ。

 

先天性それ自体で才能が成立するということはあり得ないが、後天性に接続するものは総じて先天性(素養)を意識しているのだ。これなら自分は行ける、というところにしか人間は行かないし、そこで『継続は力なり』を体現すればいいし、その道の障壁という意味においては『夢に敵無し』なのである。

人間の振り幅

バランス論の延長。人間の『振れ』を見たくなったら、神経質なこと、言い換えれば『発散』ではなく『収束』をやるといい。例えば針の穴に糸を通すとか、全方位に動ける(発散)にも関わらず、一筋の動線に束ねる(収束)というようなことをやればいい。

 

これをすると先ず指が震える。そんな針はないと思うが、この針穴が広くなればなるほどこの震えは収まる。人間がスピーチなどで緊張するのも同じ原理で、フリートークではなく、言葉の展開が一筋に束ねられているのが原因なのだ。

 

このどちらの例にせよ、あまり震えたり緊張したりしない人は元々振れの少ない人だ。逆に一つの決められたところに向かう行為で震えや緊張が伴う場合、それが鮮明なほど振れが大きい人ということになる。そして人間の器量の大小は、この振れの大小と反比例関係にあると思う。

 

基本、器の大きい人というのは細かいことを気にしないし、何をするにしても答が広い。悪く言えば「何でもいいやん」という雑な発想になりがち。だからこそ相手のことを何でも許せるし、決まり決まった発想をしないし、その時々でその人なりの最適解を出すところがある。

 

反対にこの振れが大きい人は細かいことを気にするし、ストレスをためやすい繊細な性質を持っている。イメージ的には大きなメトロノームがあって、外からの些細な刺激でその振れが跳ね上がるような感じ。その振れを押さえ込むことに慣れ過ぎていて、いつまで経っても本来の自分を出せないケースも多い。

 

しかしこれは僕は『爆発力の裏返し』だと思うし、岡本太郎の『芸術は爆発だ』に通じるものがあるように思う。言い換えればこの振れの小さな人、即ち器量の大きな人から素晴らしいアートはなかなか生まれないのではないか。この仮定が正しいのなら、芸術性と器量というのは基本、反比例の関係だ。

 

『神は細部に宿る』と言うが、内的に暴れるような振れを持った人間の静寂、つまり一筋に束ねようとした時の爆発力は、この言葉へと通じているのだと思う。芸術がほんとうに爆発ならそれは岡本太郎が言うように静寂でしかあり得ないし、心の震えは感動を知っているのだ。

 

仮にこの内的な振れ・震えを育てられるとすれば、何事にも真剣に取り組むことしかないと思う。ひとつひとつのことを厳密に、正確にこなし、すべての細部に神を宿す。子どもが大人に向かって緊張を高めていくのも、このフォーマルになっていく仕組みと関係しているように思う。

 

裏を返せばやはり、人は振れを大きくできる。フォーマルになっていくに従って、人間性の幅ができてくる。ヒッキーを否定する訳じゃないけど、僕のひきこもり時代が人間的につまらないのはつまりそういうこと。アンフォルメルには何の振れもなく、正直つまらないのだ。

 

僕はだから安易な逆転の発想よりも、純粋な正攻法を愛する。フォーマルになっていくところに人間の真価があるということを信じる。ランダムウォークは何も生まないし、ブレイクダンスなんて踊りっこない。つまり価値の閾値はフォーマルでしか越えられないのだ。

エンド・オブ・バランス

繊細でったり美麗であったりする旋律って、それに対応する繊細であったり美麗であったりする人間の音楽という固定観念が先ずあって、対照的な強者がそのタッチに触れることは、音楽史に詳しくないけどあまりないように思う。

 

ところで僕が最近よく考えるのが『振り切れ』という言葉だ。振り切れというと何かの究極ないしはその対極、というイメージだけど、『バランスという振り切れこそ至高』という実感が僕のなかにあるのだ。

 

例えば完璧な人間を目指して『完璧な人間などいない』という反発力にぶち当たるとしよう。そこからゼロ地点に翻って、今度はゼロ地点の『何もしない訳にはいかない』という反発力が浮力になるとしよう。すると中間のどこかでバランスされる訳だけど、本当の究極とはそのバランス感覚だと思うのだ。

 

これはただの仮定だけど、中間のどこかに黄金の落としどころがあるとして、上記のそれぞれの振り切れ地点の反発力は、中間に行けば行くほど効力を失うか、あるいは効力が安定せず浮力が上下する。そこをソリッドに確定させるのはその地点ごとの『具体性』だ。

 

この地点で下に落とすにはこのロジック、上に昇らせるならこのロジックという感じで、具体的な言葉だけがその効力を発揮する。そうやって究極の中間地点をソリッドに確定させるのが、僕が思うところのフォーマルな生き方。例えばタイトロープダンシングにおいて、右と左の振れというのは意味がない。

 

世界は元々そういう繊細で美麗な構造を持っていると思う。右でも左でもない、バランスという振り切れの連続体。それだけが肉体も精神をもスペシャルにできる訳で、それ以外はすべてアンフォルメルという考え方を僕は信仰している。ボディービルやボクシングの肉体・体重調整でこれは顕著だと思う。

 

つまりケースバイケースの効力を自分に効かせ続けることが、最初はつらくても、最後は最高のカタルシスに通じるという信仰。バランスという振り切れに自分をフォーカスしていき、自分にだけできるタイトロープダンシングを見つけ出す。綱渡りには人間の真髄のすべてが象徴されているのだ。

 

ちなみにパンクのシャウトにもバランス感覚は宿る。言い換えれば、本能にもバランス感覚は宿る。そうでなければシャウトするだけでみんなロックスターになってしまうし、そこにはバランスを極めたもの以外の淘汰が存在する。だから『崩す』ということにもフォーマルになるか否かの瀬戸際がある訳だ。

 

その瀬戸際=究極の中間地点を手に入れることがフォーマルな生き方=オリンピック的な世界観ということになる。人間は壮大な世界観ばかりでは生きられないけど、理想論としてはこの考え方を僕は原点に据えている。踏襲するにしても崩すにしても、そこまで行かなきゃ最高ではないのだ。

 

最初の話に戻そう。僕は以下の動画が気に入ったけど、ここにも最初に書いた固定観念の『崩し』があるように思う。ジャジーヒップホップ的には今更感のある指摘だと思うが、むしろ『強者だからこそ』それをバランス的に崩せたのだと思うのだ。

 

www.youtube.com

 

僕はバラードであろうがギャングスタラップであろうがバランスを極めれば最高の価値が宿ると思うが、そういう領域にこの動画は存在している。世界は基本、儚いものだ。そういう刹那的な栄光を比喩している、言い換えれば僕らは光を瞬間でしか描けないことをシャウトしている。これはそういう動画だ。

 

最終的に僕が言いたかったのは、弱者もバランスを極めれば強者だし、強者もバランスを極めなければ強者ではないということだ。『力を発揮する』というのは『バランスする』ということの言い換えだし、タイトロープダンシングほど極端ではないにせよ、僕らは平均台の上を歩み続けるのだ。

 

踏み外せばすべてアンフォルメル(0)。渡り続ければそれだけがフォーマル(1)。この極論めいた二進数の“1”だけが世界を動かし、歴史を描き、“0”のすべては歴史にはなり得ても歴史を描く手は持ち得ない。だからこそ僕は“0”から“1”へのディシプリンを愛し、その最果てを信じるのである。

第53回宣伝会議賞に際し思ったこと

最近、第53回宣伝会議賞の作品を考えてばかりいる。

 

何年か前に確か15件ぐらい出したのかな、それが全部玉砕したのもあって、その翌年とかは素通りしてしまったのだけど、今年はまた頑張ろうと思って取り組んでいるところだ。

 

そこで思ったのが、言葉に対する感動の閾値がずいぶんと上がっているな、ということだ。

昔なら「これ送りたい!」という感じで拾ってしまうようなコピーも、今は余裕で捨てまくっている。

逆に言えば多作は不可能だけど、ほんとうに心からいいと思えるものだけを残せるようになった気がするのだ。

 

さて、独り言で終わりそうな気もするが、この『捨てるときは素早く、取るときは奥深く』を基本態度に据え、いくつか作品を書いてるうちに思ったことでも書こう。

 

寺山の言葉で『天才だけが遠くへゆける』というものがある。

『コピーライティング=誰にでも手の出せる創作』とするのは言い得て妙だが、ファイナリストぐらいの段階になると『誰にでも』という訳にはいかない。

つまりこの言葉は、結局のところコピーでも同じように当てはまると思うのだ。

 

ただ、他の創作の例えば小説なんかと比較して、コピーには『言葉の本質的な部分は身近』という特徴がある。

つまり言わんとしていること自体は遠くなく、但し『遠くない=当たり前のことでしかない』ということでもあるから、それを謎かけっぽくしたり、見る角度や言い方を独創的にすることでオチを伏せ、読後にカタルシスを与える。

当たり前の日常が構図の切り取りやそのエディットによって、素晴らしい写真に昇華されるようにだ。

 

一番注意すべきだと思うのは、多分、コピーを読んでいる途中で最後までの内容を先読みされてしまってはいけない、ということで、先読みできてしまうということは『抜け』がないのだ。

誰にでも思い浮かぶような内容だから誰にでも先が読めてしまう、というところから群を抜いていない訳で、主語と述語の関係が説明に終始するようなコピーにこれは多い。

 

例えば『AはA’です』とか言われても、ダッシュがついただけでは何の驚きもないし、誰にでも先が読める。

これを『AはZです』ぐらい言い切ってしまって、それでもイコールが成立するような言葉のエディットがあれば読後のカタルシスが起きる。

この場合のZというのは『Aとは全く違うもの』という意味ではなく、文面がAの近似からはかけ離れているのに意味合いは同じ、というようなもので、文面上の近似というのは『Aを易々と想起できてしまう内容』というようなものだ。

具体的にはAが名詞なら名詞で、動詞+名詞なら動詞+名詞で、形容詞+名詞なら形容詞+名詞でイコール化し、つまりAと同じ品詞構成でイコール化し、且つそれが初歩的な類語であるとかね。

 

過去の受賞作の『家は路上に放置されている。』も前後が説明関係なんだけど、これは『着眼点の驚き』があるからこそ成立していて、つまり『Aは~です』の述語は言い方ひとつではないし、それを見事な言い方にまで昇華させている。

つまり『家(A)』の説明を別の品詞構成で閉じている上、それが『家』を易々と想起できてしまう内容ではないから(『家』の部分を伏せたら謎かけになり得る)、『(この説明は)Z的』ということなのだ。

でも上述した『言葉の本質的な部分』はこのコピーでも身近で、『家はずっと同じ場所です』という当たり前のことを見方(自分の場合グーグルアースを想像する)や言い方を変えることで当たり前にさせない訳だ。

 

また、偶数的なコピーも先を読まれることが多い。

言わば『恋はA。愛はB。』とかそういう類のコピーだ。

この構成の時点で『愛は』の後にAに似つかわしくないものを持ってくることは先ず読まれる。

同時に『かけ離れていればいるほどなるほど感が出る』というのも、まあ結局は読まれるので、Aの対義語まで行かなかったとしても、少なくともAの類語周辺は線から消える。

もし『恋は仮初。』と来たら、もう『愛は永遠。』になるのはほぼ鉄板な訳だ。

 

上手く言葉にできないのだが、ただの左右対称になっているだけで、左を読めば右が、右を読めば左が読めるというこの偶数構成は、読後の驚きが起こりにくい(起こらないとは言わない)。

『対義語、対義語。』という構成だけでなく、『類語、類語。』という構成でもこれは同じことで、これを『対義語、対義語、非対義語。』や『類語、類語、非類語。』という奇数構成に変えれば、最後の奇数がオチになる訳だ(左右対称が破壊される)。

これについては『おとなもこどもも、おねーさんも。』が一番分かりやすいと思う。

 

 確かビートたけしが言っていたことだが、映画を撮り始めた当初勝手が分からないから、とりあえず今まで観てきた映画で「これはしてはダメだ」と思ったことを、全部避けて撮るというやり方をしたらしい。

『名コピーの作り方』とかいう本が仮にあったとしても、名コピーが一回性なら方法論も一回性のはずで、つまりそこにはもう旨みがない。

だから唯一できることは、ビートたけしのように『禁則を決めることで打率を上げる』ということだと思うし、これってあらゆるスポーツの基本なのだ(脱線するから説明はしない)。

 

結論としては、本質は常に身近だとして、そこから(表現の)遠さそれ自体を目指しても路頭に迷うだけなので、『オチを伏せる(先を読ませない)』というところに重点を置けば結果的にそれが遠さになる、ということを念頭に置けばいいと思う。

『これが来たら次はこれ』と相場が決まっているところに驚きはないので、その相場からの『外し』を置くか、相場観がそもそもないところに行くかのどちらかを目指せたら理想的。

 

とにかく今年は本腰入れて、じぶん、頑張るべし。