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THINK ABOUT SOMETHING.

私のコピーライティング

コピーについて思うことを書こう。

 

コピーの個人的な理想形というのは、日常で先ず登場しないクリティカル口語・文語・文法にある。
《どこにでも登場できるものではなくここにしか登場できないもの》がそれであり、日本語のコピーで自分が一番好きな《不思議、大好き。》もここにしか登場できないものに分類される。
日常会話や小説でこの言葉が登場することは先ずあり得ないからだが、これは永ちゃんの《よろしく。》も実はそうで、どこにでも登場できる言葉に見えてコピーとして成立するのは永ちゃんのポスターでしかあり得ない、つまりそこにしか登場できない。
ナイキの《JUST DO IT.》も同じ仕組み。

 

ただこれは概念的な話で、具体的にどうすればそういうコピーが生まれるのかの方が問題だ。
先ず短文になればなるほど黄金は枯渇している。ナイキには勝てない。
逆に長文になればなるほど黄金は描けるが、流通力がなくなっていく。
これらの中間の短文寄り、即ち黄金が枯渇していないギリギリの際を目指すことを先ず大前提に据える。
今だったらFacebookぐらいのドメインの長さが黄金が枯渇していないギリギリのラインであるように、その長さを念頭に置いておく。
既に抽象的だが、この長さの定義は自分にはできそうもない。

 

次に自分は《脱自動化》ということを考える。
これはブレヒトの用法と違い、垂れ流されていく情報から脱するという意味で、例えば同じ何かを描いても言葉の組み合わせ次第で、《立ち止まるもの/立ち止まらないもの》の分岐が起きる。
そのほとんどを立ち止まらせない描写からそのほとんどを立ち止まらせる描写への逸脱が、ここでいう脱自動化にあたる。

 

また《愛してる》は愛情表現の一例だが、一見脱自動化の対極にある=逸脱していないように見える。
つまり表現として最も平凡なわけだが、これは《よろしく。》同様言葉だけを切り取るからそう見えるのであり、《愛してる》という言葉が登場するシチュエーション次第で、その言葉は垂れ流されないそこにしか登場できないものとなる。
あんまり好きな言葉ではないがムードメイキングによってそれが可能になり、コピーの場合これは広告依存だろう。
ただし個人的にはこれは王道の手ではないと思われる。

 

それよりもコピーそのものを逸脱させることであり、同じ表現のなかからの逸脱と表現そのものの逸脱、この二つにコピーライティングは大別されるように思う。
前者は宮崎駿が言うように、同じ黄金を描いても名作と駄作に分かれるが、そのなかで名作になることである。
後者は黄金そのものを見つけ出すことであり、これは題材と文法に大別される。
自分の大好きな《不思議、大好き。》は両者のいいとこ取りであり、少年のこころを描いたようなあらゆる表現のなかで最も洗練されたポップさを持ち、また読点を間に挟むことで口語でも文語でも登場し得ない《コピー語》とでも言うべき文法を成立させている。

 

この文法の発見=表現そのものの逸脱を自分のコピーライティングの理想に据えている。
《JUST DO IT.》よりも《よろしく。》よりも《不思議、大好き。》が大好きなのだ。

 

また語尾よりも配置、配置よりも題材というのが自分の基本的な考え方で、語尾を変えるよりも言葉の配置を、言葉の配置を変えるよりも題材を変える方がよりダイナミックに変化する。
小さく変化するということはほとんど変化に気づけないということだが、より大きく変化すればそれぞれがより強く客観視される。
そのダイナミックな変化のなかで黄金の題材を直観で選りすぐり、トライアンドエラーを高速化する。
捨てるときは素早く捨て、取るときは奥深く取り、そこで文法自体を組み立てられる可能性があればそれをとことん追求する。
これが自分の理想のコピーライティングなのだ。

 

ではそのコピーライティングはどうやって行えばいいのか。

 

これは以前にも記事にしているのだが、当たり前の日常が構図の切り取りやそのエディットによって素晴らしい写真に昇華されるように、言わんとしていること自体は非日常でなくてもいいから、しかしそれでは当たり前のことでしかないから、着眼点や言い方を脱自動化したり、オチを伏せることで読後のカタルシスを与えるというのが自分の基本的なゴールで、その方法論は《禁則を決めることで打率を上げる》と《流れ的にこれしかないに気づく》というところに集約する。
以下は以前の記事とほとんど重複するが、当記事を完全版にしてしまおう。

 

一番注意すべきだと思うのは、多分、コピーを読んでいる途中で最後までの内容を先読みされてしまってはいけない、ということで、先読みできてしまうということは《抜け》がないのだ。
見え透いた言葉の動線が残っているから誰にでも先が読めてしまう、というところから群を抜いていないわけで、主語と述語の関係が説明に終始するようなコピーにこれは多い。

 

例えば《AはA’です》とか言われても、ダッシュがついただけでは何の驚きもないし、誰にでも先が読める。
これを《AはZです》ぐらい言い切ってしまって、それでもイコールが成立するような言葉のエディットがあれば読後のカタルシスが起きる。
この場合のZというのは《Aとは全く違うもの》という意味ではなく、字面がAの近似からはかけ離れているのに意味合いは同じ、というようなもので、字面の近似というのは《Aを易々と想起できてしまう内容》というようなものだ。
あるいはAが名詞なら名詞で、動詞+名詞なら動詞+名詞で、形容詞+名詞なら形容詞+名詞でイコール化し、つまりAと同じ品詞構成でイコール化し、且つそれが初歩的な類語であるとかもダメ。

 

過去の宣伝会議賞受賞作の《家は路上に放置されている。》も前後が説明関係なんだけど、《Aは~です》の述語は言い方ひとつではないし、それを見事な言い方にまで昇華させている。
つまり家(A)の説明を別の品詞構成で閉じている上、それが家を易々と想起できてしまう内容ではないから(家の部分を伏せたら謎かけになり得る)、この説明は《Z的》ということなのだ。
本質的にはこのコピーは日常を描いているに過ぎず、《家はずっと同じ場所です》という当たり前のことを言い方を変えることで当たり前にさせないわけだ(グーグルアース的な視点に飛べる)。

 

また偶数的なコピーも先を読まれることが多い。
言わば《恋はA。愛はB。》とかいう類のコピーだ。
この構成の時点で《愛は》の後にAに似つかわしくないものを持ってくることは先ず読まれる。
同時に《かけ離れていればいるほどなるほど感が出る》というのも、まあ結局は読まれるので、Aの対義語まで行かなかったとしても、少なくともAの類語周辺は線から消える。
もし《恋は仮初。》と来たら、もう《愛は永遠。》になるのはほぼ鉄板なわけだ。

 

上手く言葉にできないのだが、ただの左右対称になっているだけで、左を読めば右が、右を読めば左が読めるというこの偶数構成は読後の驚きが起こりにくい(起こらないとは言わない)。
《対義語、対義語。》という構成だけでなく、《類語、類語。》という構成でもこれは同じことで、これを《対義語、対義語、非対義語。》や《類語、類語、非類語。》という奇数構成に変えれば、最後の奇数がオチになるわけだ(左右対称性が破壊される)。
これについては《おとなもこどもも、おねーさんも。》が一番分かりやすいと思う。

 

確かビートたけしが言っていたことだが、映画を撮り始めた当初勝手が分からないから、とりあえず今まで観てきた映画で「これはしてはダメだ」と思ったことを全部避けて撮るというやり方をしたらしく、この《禁則を決めることで打率を上げる》というのが初歩的な方法論。
そして《この言葉の流れからするとここにはこういうタイプの品詞を置かないとコピーにならない》というのが少しずつ分かってくるようになり、そこでその品詞ないしは品詞構成がなかなか見当たらない場合、それ以上掘っていってもひねくれた言葉しか残っていないので、言葉の流れ=言葉の配置を変えるか、別の題材に移動するかの判断が高速化されていくというのが高度な方法論。

 

結論としては、何かを描くにしてもそこから《表現の異質さ》それ自体を目指しても路頭に迷うだけなので、《オチを伏せる(先を読ませない)》というところに重点を置けば結果的にそれが異質さになる、ということを念頭に置けばいいと思う。
《これが来たら次はこれ》と相場が決まっている=言葉の動線が残っているところに驚きはないので、その相場からの外しを置くか、相場観がそもそもないところに行くかのどちらかを目指せたら理想的。
そこには全くひねりのないストレートな言葉が待っているだろうから。

《宿す》ではない、《宿る》なのだ

パフォーマンス(形式)は起こすものか、起きるものか。形式というのは精神の帰結だから、形式そのもののコピーはできない。つまり、その精神は形式に帰結する精神と一致しない。では精神そのもののコピーが可能かというと、精神をコピーする精神にその精神は見極められない。これは実に面白いことだ。

 

例えばブレイクダンス。この修練なくして起こり得ないパフォーマンスは、その外見だけを真似しても出鱈目なものにしかならない。かと言ってブレイクダンスを行う人の精神状態を模倣しようにも、その精神状態は何らかの到達なので、そこに達していない精神にその精神は見極められない。そういうことだ。

 

起こすと起きる、あるいは宿すと宿る。ここで《満面の笑み》を考えてみると、それを起こそうとした場合と起きた場合とでは絶対的な違いがある。そして人間はそれに気づく。それが宿したものなのか宿ったものなのかについて無意識的に気づく。人間は作為にとても敏感な生き物だ。

 

どこまで行っても前者は後者に届かない。ジェームス・ディーンでも届かない。つまり後者以上の前者はあり得ず、前者はみな後者の演技の域を出ない。しかし一流の役者は感情移入の移入意識をなくした移入、即ち強張りのない自然な挙動で形式を廻し出す。ほぼ《宿るの域》という訳だ。

 

宿すが作為で、宿るが自然なら、そのグラデーションを限りなく自然に近づけることが修練ということになる。ブレイクダンスは形式的にも精神的にもコピーできない。つまり宿しているようでは宿りようがない。しかしやはり宿さなければ話にならない。そしてその宿し方にも形式が存在せざるを得ない。

 

例えば高身長という形式があって、そうなりたくて背伸びするのがコピーなら、そうなる栄養を積極的に摂るのが宿し方の形式という訳だ。形式そのものをコピーするのではなく、形式を宿す形式をコピーしなければならない。そして《宿し》が《宿り》に変わらなければならない。

 

つまり《宿す》ではなく《宿る》なのだ。あるいは《宿し》は人に見せてはならず、《宿り》だけを見せなければならないのだ。もちろんこれも一つの形式に過ぎないが、この形式こそが人間が最も輝いて見える最有力形式ではないだろうか。

第四回文学フリマ大阪、初参加の感想

第四回文学フリマ大阪、初参加の感想です。
来場者視点と言うよりも、出展者視点にて。

 

先ず僕たちは初参加だったので、いろんな不備が目立ちました。
事前に調べておいた必要物は用意しましたが、例えばテーブルクロスにしてもアイロンをかけた方が良かったでしょうし、名刺にしてもサイトのQRコードがあるかないかで閲覧率は劇的に変わっていたでしょう。
一番致命的だったのは『説明書きのPOP』を一切用意しなかったことで、現地で手書きで書いたのですが、これをもう少し体裁を整えて出展していれば良かったな、と反省しています。
説明書きが分かりにくいと本を読んで判断するしかないのですが、僕たちの本の文量的にそのやり方で判断するには時間がかかり過ぎます。

 

また後になって思ったのは、頒布した本の見所数箇所にしおりを挟んでおくのもアリだと思いました。
各ブースの本を最初から最後まで読む訳にはいかないので、曖昧に分からないまま去っていかれる方が多かったのですが、見所のページを引いてもらうことでそれが購入の導線になることはあり得るなと。
他にも自分たち以外のブースを見ていて思ったのは、フリーペーパーを配っている方が散見されたので、しおりではなく、見所を集約した見本誌を無料配布するのも一つの手だったのではないかと。
その方法でしたら『買ってくれオーラ』を出している出展者の目の前で読むプレッシャーもなく、別の場所で読んで後でブースに戻ってきてくれる可能性もありますから。

僕たちの本は哲学的であったり、難解であったり、少なくとも『読みやすさ』とは無縁だったので、その点でも反省点はあります。
今回は初参加ということもあり、一冊のみの頒布でしたが、次回参加することがあれば他にもバリエーションを広げ、手に取りやすいシンプルな本も置いておくべきだなと思いました。
メインはあくまで哲学や文学なのですが、そういう本があるだけで結果的にそれがメインの本を購入する導線になるはずだからです。

今回は今回で『硬派なブース』にはなったと思うのですが、もう少し一般性を持たせて良かったんじゃないかなー、というのが初回参加の感想です。
また次回があれば是非参加したいですね。

文芸サークル『gamu』
http://gamu.jp

哲学史は終わらない

思考整理。僕の100mの記録が15秒台だと仮定する。ここに『彼の100m走は何秒台か』という議論が発生したとして、反論の最も少ない地点が真理に最も近い地点だという仮説。

 

例えば「彼は9秒台だ」という説を唱える人間がいたら、そこには多大なる反論が生まれる。逆に「彼は20秒台だ」という説を唱える人間がいたら、そこにも多大なる反論が生まれる。これが「彼は15秒台だ」という説を唱える人間になると、反論は概ねなくなるだろう。

 

但しこれが終わりではない。15秒台ということは小数点以下が存在する訳だけど、僕は小数は無限に微視できるという立場だから、例えばストップウォッチに15.00秒と記録されても、微視の果てには15.000000001秒という0以外の数字が現れるかもしれず、ここに新たな議論が始まる。

 

仮に15秒の小数点以下に『142857』という循環節がくりかえされるとして、彼は15.1秒か否か、否。彼は15.14秒か否か、否。彼は15.142秒か否か、否。彼は15.1428秒か否か、否……と永遠に微視できる訳で、言い換えれば永遠に否が続き、真理には永遠に到達しない。

 

つまり真理は描けないのだ。世界が仮に無限なら、世界にスタティックなものは存在しない。A-B間を通過した時間記述すらも究極的にはダイナミックにならざるを得ず、それを『描いたり!』と断じた時点でスタティックなものになる。だからやはり真理は描けないのだ。

 

要は記述がスタティックで、万物がダイナミックなら、記述は万物をひとつも描けないということだ。相対主義という考え方は収斂の対極にあると思うけど、その出発地点はここに依拠しているように思い、但し僕は収斂させるべきだという考え方。真理は描けなくても真理『的』なものは描けるからだ。

 

僕が『真理は描けない』という真理を記述したつもりでも、『...しかし真理的なものは描ける...』と永遠に記述は後続でき、その全長が哲学史になるのではないか。相対主義がこの全長を無限に後続させていく流れに対峙しない限りにおいて、僕は相対主義にはならない。収斂させる全長の歴史に乗る。

 

では今度は『絶対はあるか』という議論が発生したとして、「絶対はある」という説を唱えても「絶対はない」という説を唱えても、おそらく反論は半々で出る。しかし後者の説は『絶対はないという絶対』を唱えてる時点で矛盾なので、それが正しい場合、必然的に絶対はあることになる。

 

僕は「絶対はない」という立場だが、これはつまり「絶対はある」という立場表明でもある。つまりこの議論の答は「絶対はある」にしかなり得ないのだ。あればあるし、なくてもないという絶対があることになるからだ。そうなると反論の少なさは真理と相即しない……と言えそうだが違うのだ。

 

つまり『絶対はある』という説には反論を呼びかねない曖昧さがあり、そこから僕は存在する理由を後続する言葉で微視させていった。『絶対はある...何故ならばあればあるし、なくてもないという絶対があることになるからだ...』と永遠に後続する微視をほぼ確定的な桁まで確定させた訳だ。

 

そこまで行って初めて反論が最小化される。1.28が解の議論において「1.00台だ」と上一桁を確定させて言うよりも「1.20台だ」と上二桁を確定させて言う方が厳密になり、イメージが普遍化される。モザイクが解けていくイメージだな。

 

モザイクが解けていく(つまり永遠後続する)ことで初めてその原像と永遠後続する整数部=結論が一致されていく。もちろん人間は思想(結論)を転回することがあるけど、これは花に思えていたものが実は造花だったというような事態であり、微視の果てに起きる『聖なる脱』である。

 

つまり微視には整数部を強固にする作用のみならず、整数部そのものをひっくり返す発見もあり得る訳で、言い換えれば『脱』という帰結は途方もない旅の果ての大発見であり、『神は細部に宿る』の一形態ということなのだ。そう、既成概念の破壊にも微視は不可欠なのだ。

 

花に思えるものの微視を続けることでより花であると自信を持ち(整数部の強固化)、しかしまた微視を続けることで編み目を見出し、実は造花であると覚るように(整数部の大転回)。どちらを指し示すかは神のみぞ知るとしても、基本原則は微視を後続させていくしかないというところに尽きるのだろうな。

イメージの動体

若い頃というのは、絶対に交際できないという前提を無視した理想の相手を想定しながら自慰をする。性器を羅針盤に性的興奮を検索し、最高峰のそれで自慰する訳だけど、『世界に二度と同じことは起こらない』という前提で行けば、この自慰は絶対に再現できない。

 

つまり日々似たり寄ったりの自慰をしながらも、日々若干の差異を生み出していく。言い換えれば理想が日々すり替わり、その中で性的偶然性が開き、俗には『目覚める』とかいう言い方をするけど、思いも寄らなかったフェティッシュに目覚めていく。そしてまた理想がすり替わる訳だ。

 

噛み砕けば自慰はセックスと違って妥協する必要がないから、常に性的興奮の最高峰を見出そうとする訳だけど、歴史の一回性により、その見出そうとするものが毎回微妙に変容していくということだ。イメージとしては究極の点(理想)があって、そこを中心とした円周上をうろついているイメージ。

 

但しこう書くとその円周上をぐるぐる回り切れるイメージになるが、そうではない。この円の直径は確かに狭いだろう。広ければあらゆる性癖を包括してしまうからね。但しその狭い直径から来る全長の短い円周において、(僕が考える世界の無限性により)全ての性癖を認識することは絶対にない。

 

つまりミクロな視点では円周上の隣の性癖が全く違う性癖を示し得る訳で、その隣の性癖も同様にそうなる訳だ。円周の全長は有限でも、その一点一点は無限に細分化でき、且つその一点一点の全てが全く違う性癖を示し得る。そしてその一箇所に留まることはできず、絶えずぐるぐるせざるを得ない。

 

これこそが『性癖の変容の一メカニズム』ではないか。もちろん現実的になるとか、飽きが来るとか他にもメカニズムは働いていて、要因を一つに還元はできないけど、このメカニズムの存在は仮に真なら大きいと思う。まあ簡単に言えば『万物は流転する』ということを言ってるんだけどね。

 

おそらく推敲の仕組みもこれだよね。頭の中でイメージがあって、それを一度言葉にする。もう少しいい言葉にしようとして、またイメージを思い出す。でも世界に二度と同じことは起こらないから、このイメージは微妙に変容する。それに対し見出す言葉も同時にぐるぐる変容する。

 

ここにも究極の点(理想)があって、その周りをイメージが渦巻いている訳だけど、この時隣にあったイメージが元のところのイメージと全く違う世界観を示し、それが魔法的になるということは起こるのだ。僅かな言葉の組み合わせの差異により、遥かなイメージの変化を見せるということは起きるのだ。

 

仮に世界に同じことが二度起きる、あるいは起こせるのなら、そこに万物は留まり、流転しなくなるかもしれない。そういう意味では『万物は流転する=万物は推敲する』ということでもあるし、より高次の世界に行ける今の世界構造も僕は好きだ。もちろん永遠平和的な世界観に留まりたい心理もあるけどね。

 

僕の好きなコピーライティングもこの『隣のスペシャルを見出せるか』にかかっていると思う。魔法使いならぬ、言葉使い。それは性癖の変容・推敲のメカニズムと同じところから来るもので、隣のところならぬ大それたところに行くのはむしろ『邪道』なのだ。神は細部に宿るに反逆している訳でもあるし。

 

肉眼の解像度は年々衰えていくが、心眼の解像度は年々増していく。それに伴って隣のスペシャル・細部のスペシャルも見出せるようになっていく。この解像度の増加にも『差異にならざるを得ない』というルーマン的なものが絡んでいるように思うし、日々の差異が世界を次第に開けさせる。

 

こういう文章を書けていること自体、僕の世界が次第に開けて行ってる証拠。永遠平和的な世界観に留まっていたら永遠に書けることのない世界を示している実感があるし、差異によってここまでやって来たのだ。だからこれからも差異と上手く付き合い、僕の世界観をもっと開けて行けたらな、と思った。

可能と不可能のアウフヘーベン

『絶対はない』という前提から開始した場合、世界は二値にならないので、『impossible is nothing』を0と1と9で記述することができる。初めに0.XX...XをA(可能性)、0.YY...YをB(不可能性)とする。

 

A+B=1とした場合、X=0且つY=9の時その位は否定、X+Yで位が繰り上がる時その位は肯定を表す。この肯定の位のXとYは不確定だが、至高性に還元するのであればX=1且つY=9でしかあり得ず、その場合過去の肯定は妥協を表し、最後の肯定だけが完成を意味する。

 

これは寺山の天才論でもあるのだが、この0と9の対峙を繰り返した最果ての1と9がimpossible is nothingの彼岸であり、この彼岸が小数点から遠ければ遠いほど天才を表すが、このどうしようもなく果てしない1への収斂をメルクマールにしてみた。今のHPのアイコンがそれ。

 

発想の起点は単純だ。文字を異化する時、フォントを変えるのが手っ取り早いが、それよりも異化を強める方法は数字を使うことだと思った。文字で言うことを数字に集約し、且つそれが何かとてつもなく素晴らしいことの比喩であること。そう考えるとこのメルクマールしかなかったのだ。

 

これを自分の文学では『幽かと遥かの対峙する岸』と表現しているが、何かここからあらゆるものを紐解けそうな直観を掴みかけている。天才論で使えるのはもちろんのこと、キリストやベルセルクのフェムトがここに表れていると見ることもできる。

 

但し僕はアディダスのimpossible is nothingにはとても懐疑的だ。ではここまで書いてきたことは何なのかということになるが、『矛盾するもの以外不可能はない』という言い方ならこの言葉も成立する。つまり前に歩きながら後ろに歩くことは不可能なのだ。そう、不可能はあるのだ。

 

既知にするスピードを上回る速度で知が創発される世界で全知全能になるのも不可能だし、しかし矛盾ではない夢は全て可能というスタンスを僕は示す。それが少数点からどこまで遠いものかとか、現代で可能かどうかとかいう話は横に置いておき、dreams come trueのスタンスを僕は取る。

 

このメルクマールを文字に置き換えれば『全ての夢は叶う』だ。そう、最後の最後は必ず1に収斂するのだ。では僕らが何に気をつけるべきかというと、『矛盾した夢を持たない』ということで、この矛盾という言葉の定義をより深める必要があるなと思った。

 

厳密にはこうだ。(矛盾がない限り)どんなに不可能に思える事柄も、絶対がない限り可能・不可能という二値にはならないので、可能性は存在するという言い方になるだろう。それは0と1と9で表され、最後に浮上する1が9の無限を終わらせることが可能性への到達であり、後は彼自身の問題なのだ。

差異とアウフヘーベン

こいつには敵わないという相手の下位で棲み分けするのではなく、こいつには敵わないという相手と水平に棲み分けすること。世界はこの意味での水平移動において無限なのである。

 

つまり垂直移動――ボルトを頂点にその下位を万人が走るようなもの――は有限で、頂点あるいは限界を越えることがあり得ない。人が100mを5秒で走る時代は生身である限り永遠に来ないし、オリンピックの勝者をピークとした有限構造こそが垂直移動なのだ。

 

何故こんなことを考えたのかと言うと、最近ルーマンの社会システム理論について噛み砕いて聞かせてもらう機会があり、その『差異』という考え方と『アウフヘーベン』という考え方が相容れ得るか、という疑問が生じたのだ。僕はヘーゲルを何も読んでないけど、これは垂直移動に適用できると仮定する。

 

如何なる修練を積み、如何なる食生活をし、如何なるフォームで走るかという議論は垂直移動だ。つまり統一性に達する。オリンピック選手が総じて同じ動きに見えるのはアウフヘーベンされた証拠だし、そこから外れれば必ず記録は退行する。僅かな差異の生き残りは世界に漂う偶然性の言い換えに過ぎない。

 

つまり外的なもので内的なものではない、言い換えれば偶然的なもので必然的なものではない、あるいは現実であって意志ではない。路上の凹凸であったり、風であったり、喧騒であったりするものの総称がそれで、意志そのものは別にあるのだ。即ち差異は内的には無きに等しいのである。

 

もし統一性なんてものがあればテーマ化されたコミュニケーションは収斂すると友だちは断じたが、実態としてコミュニケーションは永遠であり、それをどう捉えるか。例えば『速さは正義だ』という思想があって、その異論が無限に創発されるという考え方に僕は異論しない。

 

これは『速さ』という言葉の定義が先ず以て広過ぎて、それをワンワードの述語で紐付けた場合、逆説が無限に創発されるのは当たり前だからだ。性善説とか性悪説とかもその類で、『人は善だ』とか『人は悪だ』とか言い出すと、見解は無限に創発されて当然な訳だ。するとここにカテゴライズが始まる。

 

『その速さは正義』『この速さは恥』という類に、細分化されていくごとにその銘名が矛盾なく断じれるようになる。つまり差異が死んでいく訳だけど、異論の余地のない然る統一性の領域は、今日の冒頭のツイートの『こいつには敵わない』という部分に相当し、その下位での差異は差異ではなく誤謬だ。

 

究極にフォーカスされた微視の世界には統一性なるものが、あるいはその近似が存在するように思う(その速さはXでもYでもなくZ)。対してその水平の差異は『差異を差異に変換する』というルーマンの言説に接続できるように思う(その速さはZでありこの速さはA)。

 

つまりアウフヘーベンも差異も棲み分けができているのだ。前者は垂直移動として有限に、後者は水平移動として無限にコミュニケーションを続けていくのである。

 

全知全能の不可能性は万人のテリトリーを万別に約束する。つまり完璧になれないからこそ誰もが約束の地に行ける(=救われる)のだ。これは僕が思うに先天性信仰に通じ、何故なら後天的に届くところに万人のテリトリーがあれば万別(固有)のものではなくなるからで、矛盾となり、不可侵ではなくなる。

 

この『私以外の総てに対する私(最たる差異)』とでも言うべき固有値アウフヘーベンさせる。それを見つけ出すことは並大抵のことではないが、理論的には万人にそれが必ず存在する。実態的には水平移動(差異の差異への変換)を繰り返すうちに自然とフィットするもの、というのが自分の実感ではある。

 

要は『押してダメなら引いてみろ』を360度に100万回繰り返せば、大抵のものは並大抵のものではなくなるのである。