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THINK ABOUT SOMETHING.

国民的ゲームの条件

最近のゲームはとにかく最後までやる気がしないが、これは「ゲーム内行動の確実性」が保障されないという所に原因があると思う。


もしかすると懐古主義者的発想なのかもしれないが、昔のゲームは選択肢がほとんど一択状態だったので、定期的に訪れるその鉄板ゲームにみんなが集中していた訳だ。


その結果所属するコミュニティーの話題はその一択のゲームで持ち切りになり、情報交換が活発化すると同時にみんなのプレイが良くも悪くも平均化され、誰もが大きく空振りすることはなかった時代があったように思う。


即ちコミュニティーが「ゲーム内行動の確実性」を保障していた訳だが、悪い意味で名作が乱発されるようになるとコミュニティーだけでは情報をカバーし切れなくなり、大きく空振りする人間と大きくヒットを打つ人間の格差が明確化されるようになる。


勿論コミュニティーの不足をwikiで補足するという道もあるのだが、コミュニティーとwikiが同等の情報量を網羅している場合、コミュニティーの方が引き出したい情報をダイレクトに引き出せる検索性があり、wikiではその検索ワードすら分からない場合もある訳だ。


即ちwikiは直接の情報交換じゃないので、不十分なのだ。やり込む人間や情報強者の為のデータベースとしてしか機能していないし、それが少数派か多数派かは考えなくても分かるだろう。


その結果大多数の人間は元々ルールを熟知しているシリーズものに流れるけど、そこには何の新鮮味もないことが多々あるので、結局ゲーム離れが進んでしまう。


コミュニティーは新作のゲームプレイを保障(フォーカシング)してくれない、かと言って旧作のナンバリングタイトルに流れたらすぐに飽きが来る、だったらゲーム自体をもう……という負のスパイラルに陥る訳だ。


ここに二択が生じる。上述の考え方が正しい場合一つ目は既に崩壊しているのだが、ゲームプレイのフォーカシングが比較的容易なシリーズものを展開するか、コミュニティーを夢中にさせる一択的タイトルを新規に創造するか、である。


勿論後者はゲームプレイのフォーカシングが難しくなるので、「一線を超える前でギブアップ」という事態も多々ある訳だけど、「その一線をみんなで超えたい」と思わせるほどの魅力があればそれは「新作」から「大作」に化ける訳だ。


その最たる例が多分、最近で言うと龍が如くやモンスターハンターということなんだろうけど、そういう流れからしか国民的ゲームには到達できない訳で、「小銭を稼ぐような佳作」はもう要らないのだ。


つまり僕は「一生着いていきます!」と言えるようなゲームがプレイしたいのだ。そういう「クリティカルな何か」がゲームには必要なのだ。