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THINK ABOUT SOMETHING.

個人の自動書記

チャラの人間性の延長線上で見た最高傑作というのは「やさしい気持ち」だと思うが、あれはおそらく浅野忠信と結婚していなければ造れなかった個人的な作品の極致である。


これは自分がYouTubeでよく聴くHAJIMARINO-MEもそうだと思うのだが、強烈な体験が言葉や音色や映像を自動書記し始めた場合、僕はその自然発生的な芸術を認める。逆に言葉や音色や映像それ自体で作品を紡いで行く場合、僕はその強制的な芸術をあまり信用しない。


これなら僕の芸術に対する考え方も一般論に歩み寄れると思うのだが、これは必ずしも昔の考え方の逆説という訳でも無く、強烈な体験に根差さない「天然の自動書記」はやはり認めることができない。


かと言って昔の「事後直観」という発言が強制的な芸術を意味する訳でもなく、保険会社の考え方だが自殺の意志を持つ人間も一年でその意志が事切れるように、その光が強烈に輝く内に創造に現場を移す、即ち「事を起こす」ことが実に重要。


そういう「個人の自動書記」が僕が考える所の創作の理想であり、事後直観に至る王道だと思うのである。だから個人史が体験的に平均化している間は優れた芸術を造れない、というのが今の所の結論。


でも「自然感情が元より聖者的」というマザー・テレサのような人間が居るように(僕がマザー・テレサと同じことをしようと思ったら感情を大いに捏造しなきゃいけない)、「自然創意が元より芸術的」という人間も居て、そういう人を多分、「天才」と呼ぶのだと思うのだ。


でも僕は天才じゃないから、出力の根に強烈な体験の光を浴びせなきゃいけない。そしてトルストイじゃないけれど、その光あるうちに光の中を歩まなきゃいけないのである。