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THINK ABOUT SOMETHING.

絆と秩序

「絆」というのは順不同ではなく、順序立ったプロセスが必須のもので、例えばブルジョワには最初から自由があるけど、希少な物事を神聖視する聖別履歴がないからカメラ的な瞬間最大値も同時になく、そこから幸福論を参照した生き方ができないのだ。


翻って戦争体験者の平和の体験は他者の何倍も幸福な訳。これは「戦争をしろ」とかそういう話ではなく(当たり前だ)、自由はできるだけ後に取っておいた方がいいということで、解禁の瞬間を輝かせる為にも受難の夜を愛するべきなのだ。


幸福との絆が確立されないまま自由を垂れ流すのと、それが確立されてから自由を剥き出すのと、順序が入れ替わっただけだが全然意味が違う訳。即ち物事を秩序立てていく順序の峰にこそ涅槃的な快楽がある訳で、僕等は「取る」ことよりも「捨てる」ことを尊重しなきゃいけない。


秩序立てるという行為は垂れ流しの真逆だ。三島が言うように神が居なければ全てが許されてしまう(垂れ流される)訳だけど、反対に戒律を幾層にも重ねて高みを翔け上がれば神それ自体で不可能だった楽園が逆説的に立ち現われる。


話は飛ぶが子供帰りというのは高みから戒律を一つずつ剥がしていく堕落行為で、究極的には自然状態まで遡るアンチゴッドを意味する。僕は自然状態(因果律)よりも社会状態(法律)の方が神の必然に相応しいと思うからね。だから不可逆の未来、遡行の在り得ない明日にこそ最高峰の蜜が宿る筈なのだ。


要するに僕等はもっと偶然性を捨てて捨てて捨てまくらなきゃいけないし、自分の中に守るべきもの、参照する峰のようなものを持たなきゃいけないと思う訳です。時の先端に神は居る。それを分かっていないとピカソになっちゃうぞ。


過ぎ去りしもの地の如し、現に在るもの神の如し、未だ来ぬもの天の如し、故に時の昇ること塔の如し。