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THINK ABOUT SOMETHING.

螺旋の芯

昨日のつぶやきだが、僕がずっと考えてきたことに繋がった気がする。つまり聖者が我が道を手放しに昇り続ければ、誰一人として例外なしに堕天する。仮にしなければ欺瞞の証明だし、単純な自我肥大は自殺行為に他ならない訳だ。


手放しではないとしても、昇り続ける為には導きが不可欠だ。それがなければ軌道も定まらないし、自分自身がそれ足り得るとも思えない。そこで僕なんかは自分以外を据える訳だけど、これで一先ず昇りが螺旋にはなる。


でも昇りを螺旋化したところで、螺旋に不可欠な「芯」までは備わらない。そこで何を目指すかということになるんだろうけど、僕の力では「神」とか「楽園」を置くぐらいしか思い浮かばなかった。


昨日つぶやいた通り、永劫には懐が在る。それが僕の場合神とか楽園なんだけど、これを超えてしまったら再び原始的な螺旋に戻らざるを得ない……訳ではなく、そこから本当の、あるいは最終の我が横溢するような気がするのだ。


この螺旋の神ないしは楽園までの圏内は言わば「世界史」だ。故にそこに留まっている間はいかなる我も「世界の掌中」であり、そのまま台頭することを望めば神に滅ぼされる。バベルの塔と同じだ。


だから僕等は多分、「暗躍」しなきゃいけないのだ。太陰が太陽に光を橋渡しするような形で、最後の直線に全てを賭けるような走り方で。それこそが神話に個人史を刻む術であり、同時に螺旋の芯を永遠足らしめるんじゃないだろうか。


結論。楽園は次第にその史実的高みを上昇させ、来る者を拒み続けている。少なくとも現在的思想では到達し得ないし、故に自分自身よりも自分以外の方を「実」とするべきなのだ。世界と我のどちらが速いか。これが僕の今の思想的テーマだ。