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THINK ABOUT SOMETHING.

言葉への責任

僕は言葉を正々堂々と使える人間に憧れる。例えば三島由紀夫とか、ハイデッガーとかだ。


僕は絵画的な画力は全然ないけど、言葉による世界描写なら多少できる。でもそれは所詮「多少」に留まっているから、描写に自信のない場面に出くわすと詩に逃げたり、曖昧な言葉をチョイスする訳だ。


僕が割かしツイッターで言葉のチョイスに迷わないのは、最近の発言の逆かもしれないが「言葉に責任を取らない」からだ。例えば命令形で人を動かしておいて、その人間の末路は知ったこっちゃない。そういうのは問題だけど、僕は所詮名もなき斡旋業者に過ぎないからね。


でもツイッターはともかくとして、本の方はかなり言葉のチョイスに迷う。これも完璧ではないのだけど、本の場合は原則として責任を取りたいからだ。だからツイッターで書いたことを本に移植する時は当然校正するし、そこだけはプロ意識(責任感)を持って一字一字に賭けている。


本当はプロフィールに書くべきなんだろうけど、僕は本では言葉に責任を取ってもツイッターでは責任を取らない。あれは横尾忠則氏が言ったように、雑念のゴミ箱に過ぎないからだ。


もし雑念にまで責任を取らなきゃいけないんだったら、オナニーもできなくなる。「責任を取る」というのは言い換えれば「正確性を保障する」ということだけど、妄想(雑念)に正確性なんて端から在る訳ないからね。


ツイッターは僕の場合、言葉のリハビリの役目も果たしているけど、明日の思想の精神的土壌としても機能している。そしてそれは責任を持ち込まないからこそ機能しているし、そこに高速な生産性が生じる訳だ。失敗も含めてね。


ツイッターはあくまで「言いたい放題」で、そこから取捨するのは僕の場合「本」だ。最初から慎重に取捨してしまうと言葉の活気がスポイルされて「只のオールスター」になるし、積極的に宙ぶらりんにしておけば「言葉の熟し」に繋がってサルベージの際には作家性も出る。言わば「一貫して自然」な訳だ。


そういう意味で僕には両方必要だし、責任に対する捉え方も今後しばらくは変わらないかな。