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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

行為が先か自信が先か

僕は行為が先か自信が先か、ということについては結構考えてきた。もし自信が先なら自信がなければ行為もなくていい、という決壊が起こる。ゆえにその一点においては行為が先んじるべきではないのか、といつも思う。


例えばキリスト不能論というのが在るらしいけど、それが本当なら「姦淫するべからず」という思想は全く通用しない。姦淫しない(できない)自信が前提で組まれた思想ゆえに、説得力が全く帯びないからだ。


人を見る時僕は行為自体を見たりしない。行為が何によって満たされているかを見る。先天的な自信によって成立しているのならそこに感動はしないし、無知や無邪気が根拠でも感動は当然起こらない。


では行為が何によって満たされている状態を理想とするのか、ということになる。三島は「自分を守る思想は卑しい思想だ」と言ったが、彼の行為は全般的に自信に裏打ちされた、周到に下準備された容易い行為だろう。即ち彼は行為を守っていたのではなく自信を守っていたんじゃないか、といつも思うのだ。


もちろん自決はどうあがいても認める。逆立ちしたって否定しようがない。三島に否定的な眼差しを向けておいて三島をサンプルにするのもアレだけど、あれは絶対に「自己犠牲」だからだ。


彼ぐらい観念がハッキリしている(無意識が無いそうだからね)人間が、自決の痛みの想像をできない訳がない。自信とかそんなチャチなものは超越している。彼の生前の行為はほとんど自信(自分)を守っているようにしか見えないけど、あれだけは違うのだ。


自己犠牲と言うとキレイ過ぎるし、自決ぐらいまでいかないとハッキリしないから、「覚悟」という言葉が行為の条件として一番理想に近いような気がする。そして自信というのは覚悟の縮図だが、その隙間を埋めるのは思想や理想から来るパッションだ。


即ち自信はそれ自体は利己的で、冷ややかなものだが、覚悟には人間としてのパッションが含まれているのである。そこまで行って初めて行為に血が通うし、見ていて胸が熱くなる訳で、いつの時代も人の心を動かすのは血や火の「赤の鎖」なのである。