BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

ゼルダの哲学

ルールプレイというのは「神憑り」で、ゲームがプレイヤーを定義する、既成事実の器。ロールプレイというのは「我宿し」で、プレイヤーがゲームを定義する、天地創造の器。前者はゲームが高解像で、後者はプレイヤーが高解像だが、この両者をハイブリッドさせた超解像というのが次の流れになるのかも。


要するに今までのゲームのインタラクティビティーというのが単にデジタルのレスポンスが可視化されているだけだったのに対し、ロールからもルールからもその固有性において相互定義できるような、もっと根本的なインタラクティビティーが始まるのではないか。


これは現時点では多分、サンプルがないので話を進めにくいのだけど、一般的な意味でのインタラクティビティーが意識的なものだとすれば、僕が今言ったインタラクティビティーはもっと無意識的なものの筈だ。


例えばダークソウルをやっていて、プレイヤーの固有性においてゲームを定義(アイデンティティーの支配)するのは「結果論」に過ぎない筈で、それ自体を目指すのは無意味だ。ロールがルールを定義するのもルールがロールを定義するのも、無意識で自然作用しなきゃ単なるお仕事になってしまうからね。


ベヨネッタがプレイヤーを定義する側、ダークソウルがゲームを定義する側として、この両者を相互定義するデザインに一番近いのがゼルダだ。例えば一択的に収束する攻略の糸口を求めるのは、ロールの側からルールを定義することでもあり、ルールの側からロールを定義することでもある。


最早ゼルダにおいてこの両者は二律背反ではなく、不可分であり、アイデンティティーの支配と支配が相互化されたそのデザインは、おそらく神学に近い。但しそれゆえにゼルダには固有性が活躍する気配がほとんどなく、クリエイターの脚本がルールとロールを一対一で対応させる唯一の因果だったりする。


もしプレイヤーがその固有性においてゲームを定義できるなら、万華鏡のように見る人によってその相を変化させるけど、ゼルダはそうじゃない。即ち神(ルール)に全てのプレイが吸い上げられてしまう構造であり、我(ロール)は神の唯一性を認識することでアイデンティティーを相互支配できる訳だ。


このゲームはこういうもので、プレイヤーはこういうものだという、定義の相互支配。そう考えるとゼルダはやはりロールプレイの原型で、インタラクティビティーが見事に無意識化されている。気付くのが遅いけど、今ここで書き出すまで自分も気付かなかったからね。


でも冒頭でつぶやいたハイブリッドというのはそういうものじゃない。先にも書いた通り、ゼルダ固有性を殺すからだ。誰がプレイしても固有のゲームになり、固有のプレイヤーにもなる。そういうデザインが次のトレンドだとして、オープンワールドが一番それに近いかもしれない。


でもここまで書いて気付いたが、プレイヤーの側の固有性が優先されるゲームは、自ずと相互定義するのではないか。即ちゲームの側からプレイヤーを定義した所で、両者が固有化することは在り得ないが、プレイヤーの側からゲームを定義する場合、両者の固有化が自然発現する気がするのだ。


言わばレディーメイドかオーダーメイドかの違いで、既製品の固有性はユーザーの固有性を押し殺すだけだが、依頼品の固有性はユーザーの固有性が先行しているから、共に保障され、即ち製品の後にユーザーが在るのではなく、ユーザーの後に製品が在る訳だ。


無意識が意識を支配しなくなり、意識が無意識化するというのが「死」だ。意識が無意識を支配しなくなり、無意識が意識化するというのが「生」だ。この死生観に基づいて言えば製品は意識で、ユーザーは無意識で、支配者はユーザーであるべきだ。


無意識が意識に対して支配的であるように、製品(意識)はユーザー(無意識)に支配されて初めて相互に固有化される。でもこれだと今時オーダーメイドで服を造る人は中々居ないから、既製品を買うユーザーは総じてファッション性を押し殺している、ということになりかねないが、それは違う。


服の話をするつもりはなかったが、料理と違ってファッションは消費者と生産者の間にかなりの隔たりが在る業界だ。ゆえに一般的に取る選択肢というのは、自分のデザインセンスの近似と言えるデザイナーを網羅することで、そこから理想の八割九割を取っていく、という服の買い方だろう。


こういう買い方の場合、既製品を買うだけでも自分の固有性は八割九割保障される。もちろん理想を代わりに描いてもらってるだけならそうはならないが、一割二割の妥協が事実の場合、残りがその人の固有性ということになる。


さて話を戻そう。製品はユーザー在りきで、ユーザーは製品在りきではないということを僕は言った。つまりユーザーは製品がなくても存在するが、製品はユーザーが存在しないと成立しない訳だ。


この不可逆の前提はそのまま優先順位に置き換えられ、プレイヤーの介入余地の狭いレディーメイドはプレイヤーを運命付け、ゲームも同時に固有化するまでには至らない。「固有性」と「固有化」はそれぞれ別の意味で、前者がアイデンティティーに近ければ、後者は自由化に近いからね。


逆にプレイヤーがゲームを支配するオーダーメイドはプレイヤーが天地創造する器に過ぎないし、その時点でプレイヤーもゲームも固有化されることが保障される。即ちゲームがプレイヤーを自由化することはできないが(涅槃原則)、プレイヤーがゲームを自由化することはできるということ(快感原則)。


従って冒頭に書いたハイブリッドだが、ダークソウルにもその片鱗を窺うことはできる。即ち無意識(プレイヤー)を支配者に立てている時点で最低限のロールプレイは作用し、創造の器にもなる訳で、その意識の舞台はなんだって構わない。でもこれだと今までのゲームデザインと同じで、何も変わらない。


そこで意識(ゲーム)と無意識(プレイヤー)を拮抗させるゲームデザインがこれから出回るのではないか、と思うのだけど、ダークソウルはそういう意味で完璧にはゼルダの反転ではない。ゼルダの反転というのは双方からの固有化であって、無意識からだけの固有化ではないからだ。


ゼルダは「答の絶対化」という手法によりゲームがプレイヤーを支配し、プレイヤーがゲームを支配するという、信仰と応報のデザインを勝ち取った訳だけど、その代償として固有性も固有化も欠いており、しかしそれこそがゼルダなんだろう。


即ちゼルダには涅槃と快楽(生死)が隣り合わせで存在するし、彼岸の多層構造で全体が設計されたゴシック建築のような壮大さが在る。見た目の壮大さは最近は弱くなってきたが、本質の壮大さは今も尚健在というか、唯一だ。


支配者としてのゲームと支配者としてのプレイヤーを拮抗させたゲームデザインの成功例は、現状ゼルダだけだ。そしてそのゼルダの真の反転というのは、一体どういう作品になるのか。そもそも論理的に矛盾している命題かもしれないが、何らかのブレイクスルーが在ればあるいは……。