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THINK ABOUT SOMETHING.

夕闇通り探検隊のワンシーン

今はもう引退したし、第一線で活躍したこともないヘタレだけど、僕が過去格闘ゲームをやっていた頃の経験で言えば、「自然 > 工夫 > 努力」という差が在ったように思う。


自然というのは一番理想的な状態で、体が脳を経由せずにそれ自体で状況を合理化する、腹から来るマイクタイソン的プレイだ。そしてそれを最も上位とした次に在る工夫は自然のエミュレーション、努力は自然のシミュレーションということになる。


工夫はバキの作者的に言えば女々しさの代表なんだろうけど、これは片目(脳)で自然を参照しながら片目(体)で自然を遂行する行為だ。でもこれは理論的には同じことができる筈なのに、その「片目の過負荷」ゆえに綻びや欠けが結構出てくる。


そして努力は自然を把握することすらできないまま、自然を模する行為だ。僕は継続を信じておきながら努力という言葉はあまり信用しないけど、それは今言ったような構図に努力が還元される、即ち空回りするしかない宿命を知っているからだ。


継続が努力かどうかは横に置いとくとして、継続しようと思う時点でそれが自然化する可能性は在り、即ち才能に化け得るだろう。友達で格闘ゲームがヘタな子が居たけど、上達しようとする意志が全くなくて、その時点で才能がないというか、ある意味覚ってるなと思ったが、つまりそういうことだ。


努力と自然の隙間は絶対に埋まらない。例える相手が相手かもしれないが、山崎邦正が昔ビートたけしを目指してて、途中で「なろうと思ってなれるものではない」と気付いたけど、それと一緒で、腹から来る無前提性のようなものを努力で掴める訳がないのだ。


では工夫と自然の隙間はどうだろうか。これは最低でも自然が視界に収まっている好条件が整っており、従って無前提性に対する前提の段を徐々に落としていくことは可能のように思えるが、私感で言うならばこれも多分、無理のような気がする。


最終論的には腹から出る、ダイレクトに動く、そういうアプリオリなものが「強さ」だ。それ以外が全て「弱さ」だと仮定して、その差を努力や工夫から埋めるのではなく、むしろ「埋める」という発想を捨ててしまって、自然と発現するものに「目覚める」ことだ。


全人的な強さなど存在しないし、全知も全能も幻想に過ぎないから、ゆえに万人強者足り得る。世界が仮に有限でも、あるいは有限に感じたとしても、ゲーテが言うようにあらゆる方向に歩いていけば無限になる。だから強さの形も無限に在るし、不滅の一強なんて絶対に存在しない。


理想を立ててそこに向かっていくのではなく、自分の中の理想に目覚める。その能動的な内向行為を多分、継続と呼ぶのだと思うし、全てのことをやることはできなくても、自分のやりたいことぐらいは見つかると思うよ。


でもこんなことをつぶやいておきながら、僕は夕闇通り探検隊の主人公が同級生に切れた時のような、弱さの輝きみたいなものを信じている。強者がその強さにおいて言論を唱えた所で誰のシンパシーも得られないと思うし、そんなもの共産主義と一緒でエモーショナルなものを無視してしまっている訳だ。


要するに、熱いように見えて実は何も熱くない奴に騙されるなということだ。本当の熱さというのは虚勢の瞬間のその「燃焼」であり、刹那的な「輪廻」ですよ。つまり、人間はどこまで行っても一瞬一瞬でしか輝けないのである。


ロジックが機能主義に還元されたら世界は終わりだ。ヒトラーのような完璧主義者の悲劇はそこに在って、夕闇通り探検隊のナオの赤面にはそういうことを示すだけの情報量が詰まっていたと思う。