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深淵の双子

一冊の詩の原本と小説の原本がそれぞれ在るとして、それを別の国の言語に翻訳する時、必ず詩の方が難易度が高くなることの理由を考えてみた。


例えばある国の単語をある国の単語に置き換える時、元の言葉が明瞭にフォーカスされていればいる程同等の単語に置き換えることができる。そのフォーカスされた単語の総柄が文を成す時、それも同様に素直に翻訳することができる。


これが詩の場合両方(単語と文)で問題が発生する。先ず単語について言えば、定義の輪郭が朧で必ずしも本義に還元されないから、翻訳する単語もこれと言った正解がない。でもまあ一語一語という単位で見れば近似の言葉は何とか見つかるだろう。


但し文になると違う。近似として置き換えた単語の総柄の、ずれの総和がかさむという意味ではなく、言葉の言葉以上の真価というか、言霊的な示唆性が翻訳の段階で根本的に違うものになるという意味において、文全体の翻訳は極めて難しくなる。


言葉の本義の封を解き、朧にすることで生じる示唆性の総柄としての、抽象画。それを完璧に翻訳しようとすると、メタファーも立てなきゃいけない、リズムも立てなきゃいけない、全体像も保障しなきゃいけないとなって、そりゃ大変だ。というか、絶対無理な話だ。


これは詩人が読者を煙に巻いている、という単純な意味ではない。論者の特質が言葉のドスを利かせる理性的ヤクザという点ならば、詩人の特質は言葉の自由を解き放つ感性的パンクという点であり、どちらもそれ相応の意義が在るし、どちらも捨てたもんじゃない。


一つ一つの言葉を数学的に絞って絞って写実に導いていくのが論者なら、一つ一つの言葉を不条理に煽って煽って抽象に繋がらせるのが詩人であり、その無限の彼方で躍り続ける者は魔法使いならぬ「言葉使い」と呼ばれるに到る。


ある意味では詩は何一つ答のない地獄だが、それはアングラの仄暗さにも表れているし、ほとんどの人間はその本性によって自滅する。ニーチェの深淵の言葉を真に受けて、しかし不退転の覚悟を持ってそこに向かえる者はほとんど居ない。


深淵を覗き見る権利者は王者だけだ。諸々の夢想家の諸々の夢想の唯一の正夢を識る、流れ星だけだ。そういう意味では詩は弱者の文学ではなく強者の文学であり、しかし実態がそう映らないのは詩人のほとんどが言葉遊びに留まっているからだろう。


論理は外を変えようとはしない。それは自分が変わろうとする為の事実だからだ。詩は自分が変わろうとはしない。それは外を変えようとする為の誓約だからだ。即ち論者には内的エロスが在り、詩人には外的エロスが在り、これは深淵の双子なのだ。


僕の解釈では、深淵というのは天上的なもののメタファーだ。神の頭上の禁じられた聖域であり、人間実存の奥の細道だ。ヘルダーリンキルケゴールボッシュもそこで滅びたように思うし、ゲーテは「深淵もどき」を見ていただけのように思う。


そこでグリフィスな訳ですよ。結局フィクションの中だから成立しているのかもしれないが、あれが詩人的詩人であり、本当の強者であり、実存の際を聖なる忘我で躍っている人間だ。その対極としての深淵の論者(双子)は、僕自身論理的じゃないから例が思い浮かばないけど、片方の例は唯一あそこに在る。


僕の定義で言えば論者は弱者で、それは超えるものを求めるからだ。例えばバキの親父にはそんなもの端からないし、彼の男の原理は「変わらないこと」だろう。その一点においては彼も詩人だし、強者だし、そうなるとゾッドも当てはまるか。


でも僕のような御託を並べる人間が弱者で、詩的な人間が強者というのは、逆説のようで一つの真理だろう。そういう意味では僕も神話の中に生きる、ファンタジスタになりたいぜ。