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THINK ABOUT SOMETHING.

神の無効証明

定義
神は聖なるものである


定理一
聖なるものは俗なるものの幽かなる残滓であり、俗なるものは聖なるものの遥かなる残滓である


証明一
仮に百年と一日の生を与えられ、百年間は極楽の限りを尽くせたとしても、最後の一日に地獄の拷問が待っているとすれば、誰もがその人生を辞退し、しなかった者は己の想像力の欠如に例外無く後悔するだろう。この「一日への百年の敗北」が物語っているのは、如何なる幸福を如何にして積み立てた所で、一瞬の災いが紛れれば「全ては無効化される」ということであり、ここでは極楽の年数を百年に限ったが、これを万年、億年、兆年と無限に拡張して行った所で尽く同じ結論に帰結し、従って世界は光よりも闇の方が遥かに深いのである。この「無限が一日に勝てない」という結論は、遥かなるものの幽かなる残滓が光であり、幽かなるものの遥かなる残滓が闇であるということを物語っており、従って闇と光の比率は「無限大:その残滓」又は「無限小:その残滓」として表すことが出来、これを数字に置き換えれば「0.999...:0.000...(此岸:彼岸)」となる


公理一
無限大の残滓は前提が無限大である限りに於いて無限小であり、事実上存在せず(0への収束)、無限小の残滓は前提が無限小である限りに於いて無限大であり、事実上の全て(1への収束)である


公理二
循環節が9の無限小数(0.999...)は数学的に1(森羅万象)に等しい


結論
公理一と公理二に拠り、森羅万象は俗なるもので満たされている。定義上の神は無限の彼方で幽かに輝いているが、無限大の残滓として見た場合も無限小そのものとして見た場合も、無限の収束の性質に拠って光は打ち消され、即ち収束された1に残滓は無く、収束された0に存在は無く、従って神は存在しない又は永遠に存在しない所に存在する


少しだけ補足。聖なるもの自体は確かに存在するが、それを反証してるのではなく、不滅の聖人というのが事実上成立しないということを言っている。


小説にした所で、絵画にした所で、漫画にした所で、映画にした所で、不滅の聖人なんてものを描いたら、百発百中腐敗臭(嘘の匂い)しかしなくなる。「無限が一日に勝てない」という結論からして、聖なるものと不滅は相容れないからだ。


僕は「ある極限に放り込まれて万人が一様の行為を取る状況」を「原理」と呼んでいるが、この原理の内側というのが0.999...であり、外側というのが0.000...な訳だが、これを突き破ることは収束論的不可知であって、0の無限羅列は永遠に岸には到達できない。


岸と思ったらそこは0で、また岸と思ったらそこは0で、それの無限回の繰り返し。だからSF的な神は在り得るとしても、現実原則に則った現人神というのは、先ずないな。僕は汎神論者だけど、こういう諸々の前提を踏まえた上で、神の人格を信じなくなったのだと思う。