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THINK ABOUT SOMETHING.

純愛は洞察から

本気の恋愛が先ず在って、それの為に仮初の恋愛を遊び抜く。そういう恋の形態が在ってもいいだろうと常々思うのだけど、熟した頃にもう一度気持ちを確かめ合って、それが実は幻想だったなら別れればいい。こういう形態こそが最終的に、「純愛の形」になるんじゃないのかな。


形を守り抜くのではなく、形にすがりつく人間というのは、最後は形を破る。できちゃった婚で既成事実にしてしまう奴とか、それらしい口実でお互いにタトゥーを彫って逃げれなくする奴とかね。まあ、後者は身内のことなんだけど、そんなの全然純愛じゃないね。


僕は浮気には結構肯定的だけど、相手がイヤなら(ほとんどそうなんだけど)絶対しない自信が在るし、でも僕の方はと言うと、最近になって「君はいくらでもすればいい」という考え方になった。形で縛るのは自分に自信がないことの裏返しだし、対等の恋愛であればこういう心境になれるものだ。


只のマゾヒストなのかもしれないけど、僕は基本的に尽くす方だから、この彼女を肯定して自分を犠牲にするみたいな生き方に、逆にカタルシスを感じてしまう。この思想って典型的な「やられ役」なんだけど、それでもそういう考え方になってしまう。


要するに、最近になって自分に自信が着いてきたのだ。それはまだ外見には表れていないし、ドジっ子のままだけど、内面は燃えているというか、輝いているというか、とにかくそんな感じなのだ。


感傷に浸ってる訳じゃないが、僕はミスチルのゆりかごのある丘からの歌詞に、いつもグッと来る。あの類の浮気は多分、僕には我慢できないけど、あの類の浮気には遭遇しないという自信も同時に在る。僕は自分で言うのも何だけど、仮初のそれは別として、女を見る目は結構在るからね。


人を見る目って基本的に誰にでも在る。ただ、感情や気持ちがそこと一致しないだけの話で、僕は結構一致してしまう。見る目っていうのは感情や気持ちと一致して初めて「在る」と言えるものだし、そうじゃなきゃ押尾学みたいなつまらない男に誰も引っ掛かる訳がない。


見る目の在る者は見る目の在る者同士惹かれ合う……かどうかは知らないけど、あの首に竜巻巻いてるみたいなおっちゃんが言うように、外見はそんなに重要じゃない。内面が腐ったら外見も腐るというのは先ず間違いないし、内面が輝いていれば「見る人が見れば分かるもの」だ。それが「見る目」だ。


今分かった。僕は「芸術で完結させ過ぎ」なんだ。ゆえに肉だけの重なりなら在っても、魂同士が惹かれ合って重なるということが中々起こらない。僕の芸術的な輝きは世界に向けられてるけど、そんな大袈裟なものではなく、日常生活で共同化できるような輝きでないと、「一人でやってろ」ってことになる。


というかそれ以前に、そんなもの「見る人が見れば分かるもの」の範疇を超えている。百歩譲って僕が内に聖書に匹敵する思想を抱えていても、それを生活実践しなきゃ誰にも分かる訳がない。「一人でやってろ」という言葉すら出てこない。


要するに「見る人が見れば分かるもの」というのは「実践を通じて見えるもの」なのだ。実践がないということは洞察の根拠もないということだし、実践がないのに「こいつは凄い」と言い当てるのは初対面で人格を言い当てるぐらい、矛盾に満ちている。


実践を中間に挟んだ、洞察と洞察の出逢い、それが「魂の恋愛」だ。内面を育んできた者同士の、エネルギー(洞察力)のぶつかり合いだ。エネルギー(洞察力)がすっぽり嵌る器と器、それが男と女だ。こう考えると最終的に純愛というのは洞察の形を取るのかもしれないな。


内面を磨く根本的な力とは「洞察力」で、言い換えれば「見る目力」だ。そしてこれらの力でいつしか自分の内面が輝き始めると、異性の中にも同じ輝きが在る場合、同じ見え方でそれが見える。自分の中に同じ輝きがない人は仲間外れというか、二人だけに通じ合うものが燈る訳だ。


輝きを高めるのも洞察力で、輝きを察するのも洞察力だ。そして高い所に辿り着いた洞察力は、同じ高さの輝きも同時に察することができるようになる。そうじゃないと自分がそこに辿り着いたことが矛盾になるからね。


理想論かもしれないけど、この高さが高ければ高いほど出逢いの感動は大きいし、外見を超越した光を掴み取ることができる。僕に今足りないのは「実践」だけど、今日のツイートで色々考えさせられることは出てきたなー。