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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

弱者の意識

弱者の意識ってそんなに悪いもんじゃない。むしろそれを失ったら人間終わりで、自信の在ることにしか手を付けてないことの裏返しだ。もちろん適材適所的な限界は在るけどね。


以前にもつぶやいた気がするが、自信が覚悟への隙間を埋める時、弱者の意識が生じる。自信は対等未満への威光、覚悟はより強き者への畏怖だから、当然のことだ。生涯を自信の内側で遊んでる人は、結局最後に「行為」が伴わないと僕は思う。


僕は「世界の為に死ねる」とかいう発想が最近になってキライになった。それは自分の命の過小評価でもあるし、もし妥当評価で自決するなら世界と釣り合う程の命の輝きを内に持っていなかった訳。世界の方が重かった訳。


こういう「世界に汲み取られる意識」というのは、実は強者の意識だ。強者っていうのは集合的なもの(神とか魂とか)への委ねから来る、一種の忘我で行為をやってのけるから、情熱的と言えば情熱的だが真の行為とは言えないと思う。


弱者は神とか魂より自我から出発するから、大いに躊躇する。世界と釣り合う程の命の重さを、悪く言えば未練として、良く言えば異性愛として持っている。僕は個人的な未練は簡単に捨てれるが、後者の未練は中々捨て切れないし、人にはずっと守りたいものが在る筈なんだ。


僕はそういうものを最近になってようやく見つけたけど、それまではミスチルで言う所の「小便臭い十代の恋」しかやって来なかった。だから「世界の為に死ねる」という発想は正直、持ってたし(全然いい意味じゃない)、徴兵でも創作でも何でもいいから「つまらない人生」で終わってもよかった訳。


でも心境が変わって、今はダンテの神曲の結末に、凄く惹かれる。あの作品が行為的かどうかはともかくとして、神とか魂とか愛とかが最後に一致しただろう。あれが結局集合的な委ねなら萎えるけど、守り抜くべき何かを守り抜くということなら、それが「行為」だ。


だから「世界の為なら死ねる」とかいう大きな話じゃなくて、「君の為なら死ねる」という小さな話の方がより弱者的で、より行為に近い筈だし、これもミスチルだけど「世界全体の一大事」がどうでもよくなる心境、それが本当の恋だと思う。