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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

ロジックは正義の世界か

漠然と直観したのだけど、ロジカルになるということは正義に近付いていくということじゃないのか。もちろんロジカルな欺瞞というのも在るけど、そこさえ監視していればロジックの宿命として正義に帰結せざるを得ないからだ。


その条件自体に無理が在るのだが、「対等にして公正」という条件下の論戦は、必ず正義が勝つ。ロジックというのは本来妥当なものが妥当に通る世界だから、不義が勝つようなことは原則論として起こらない。これは司法制度の前提とも言えるし、詐欺や詭弁は互角の法廷では通用しない訳だ。


例えば独裁国家で妥当なロジックが通らないというのは、それは対等でも公正でもないからだ。また公正な論戦であっても、対等でなければ不義の手駒にされることも在る。要するに「詭弁」だ。これは子供がいくら本質を衝いたところで、ロジカルじゃないから大人に操作されるのと似ている。


ちょっと発想が古いかもしれないけど、ミュージシャンを「若者の代弁者」に見立てることって昔は在った。尾崎豊とかニルヴァーナとかね。彼等がどこまでそれに相応しかったかは横に置いとくとして、若者と政治の間に在る決定的な断絶を埋める作用を担っていた訳だ。


若者は基本的にロジカルじゃないから、簡単に手駒にされるけど、それが論理的詐欺であることを実感しながらも、返す言葉がない。そういう類の苛立ちの最前線に立つ人間がオピニオン・リーダーなのだとして、そこには政治との一定のタクティクス(駆け引き)が存在するべきだ。


そういう「政治操作が及ばない聖域」を築こうとしてそれが揉み消されるのなら、民主主義は間違いなく「幻想」ということになる。純粋なロジック同士のタクティクスを放棄するんだから、公正性を捨てるんだから、当然のことだ。


操作するロジックと操作されたロジックで世論を形成しようとするのなら、民主主義はやっぱり形だけのものだ。ガチンコの勝負がそこにはない。「対等にして公正」という土俵に引きずりおろせば正義が必ず通る訳だから、それに必死に抵抗する利権構造(不義)が在るとしか思えなくなる。


だから今日急に降ってきた「ロジックは正義だ」という考えも、現実的には難しい訳だ。でも政治なんかよりももっと小規模な、村規模レベルの現場(例えば家庭)ではこの考えは多分通用するし、イロジカルなものを立てる為にも徹底的にロジカルになる、これが人生の第一義なのかもしれないな。