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THINK ABOUT SOMETHING.

理詰めの果てにあるもの

僕の創作の特徴だと思うのだけど、文章にしても画像にしてもとにかく「再現性がない」ということ。一度造ったものを再び造り直すことができないし、正直文章を思い出せないこともしょっちゅうある。


「作品との関係性が薄いからそうなるんだ」と言われそうだけど、必然性の塊みたいなガチガチの作品は、結局同じ所に終着しちゃうんじゃないかと最近になって思い始める。微妙に例えがおかしいかもだけど、例えば僕の友達は浄水器のセールスをしていたことがある。


セールスと言うと毎回変化する即興の技術というイメージがあるけど、細かい部分ではそうでも大枠では同じようなパターンに嵌めていく訳。笑いと一緒で「こういう状況はおいしい」という流れに、客が気付かないようにそれとなく持っていく、そこが技術的な部分で、そのパターンのストックがキャリアだ。


パターンというのは再現性の言い換えだろう。友達が言ってた「結局同じことを言う奴が強い」というのはそういう意味だろうし、場数ゼロの相手に対して無数の場数を持った人間が一番イケそうなパターン、要するに過去の成功の近似をリアルタイムで検索してそこに嵌める、それがセールスの本質だと思う。


セールスは対等戦じゃないから厳密にはいい例ではないんだけど、格闘ゲームで考えればある作品がリリースされると、初期の頃はみーんなバラバラのプレイスタイルなのに対し、理詰めが進む終盤になるとみーんな画一的なプレイスタルに収まっていく訳だ。


そういう末期症状が創作の飽和状態でもあり、最近の方法論先行型のお笑い芸人(笑い飯とか)に似ていると思う訳。即興の象徴に思われてそうなさんまにしたってそうだし、この逆を行く人間の成功者は松ちゃんぐらいしか思い浮かばない。


松ちゃんですら完璧じゃないんだけど、彼は吉本だけど新喜劇的じゃない。要するに、さんまみたいにベタじゃない。HEY3とかダウンタウンDXではそういう側面もあったけど、彼の言葉で言えば「笑いのレベルを落としてる」だけだろう。


とにかくハイテンションであれば、マシンガントークであればパターンのチャンスもそれだけ多く舞い込んでくる、というのがさんま流だ。それに対して松ちゃんはあまりパターンに逃げたりしないし、むしろパターンを創造する側で、大袈裟に言えばさんまとは静か動かぐらいの違いがある。


「具体的に言え」と言われれば正直答えられないんだけど、お笑いのテンプレートみたいなものは大体ダウンタウンが網羅してしまったというのが僕のイメージ。ごっつええ感じシェイクスピアで、後輩芸人がその注釈みたいな、哲学書のような構造になってる訳。


最近はテレビ見ないのでよく分からないけど、吉本隆明風に言えばさんまが木の枝葉とすれば、根幹は松ちゃんで、沈黙がある。そこには流転か自転かぐらいの差があるし、どちらが創造的かと言えば、当然松ちゃんの方だ。


僕も人のことは言えないけど、生活をパターン化するというのは、一番芸術から離れることだと思う。普通は「それでいいじゃん」で終わりそうだけど、それって人生を垂れ流すということでもあるんだぞ。そう簡単に流せることじゃないし、むしろその流れに逆らわなきゃいけないんじゃないのか。


枝葉が育つ為には根幹が育つ必要があるだろう。逆は成立しないし、一見成立してるように見えても僕はそれを「流行」と呼ぶだけ。そしてここまで「流」という字が三回出てきたけど、人生を垂れ流すのも、流転に従うのも、流行に乗っかるのも、ぜーんぶ精神的な墓場を意味すると思う。


だから根幹の部分、沈黙の部分に、「再現性なき自分自身」を求めなきゃならない。そして枝葉がパターンとすれば根幹はそのリファレンスだから、それを求める権利は芸術行為の中にしか宿らない筈で、それが僕が芸術する動機だというのは後付けだけど、今はそういう心境です。


神を描くのは一方で科学であるけれど、他方で芸術行為でもある。そして科学と芸術が描いてきた純粋認識批判の壁画、その総体が「神話の近似」であり、そこが「淵」とすればその外側は「瀬」であり、そこから行為はほとんど出てこないだろう。


僕がそうと言う訳じゃないんだけど、要するに最前線で煽るのも、最前線で動くのも、両方芸術家なのだ。認識は終着ではないけれど、行為の前提ではあるから、その入り口が芸術であることは実に自然で、そこから行為に到るというのはなんだかアンチゴッドみたいで、かっこいいじゃん。