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THINK ABOUT SOMETHING.

再現性と一回性

再現性の対義語を一日考えた挙句、最終的に一回性という言葉に落ち着いた。最初は新規性とか、独創性とか、純粋性とかで妥協しようと思ったんだけど、ふと寺山修司の「歴史の聖なる一回性」という言葉を思い出し、ピンと来た訳だ。


純粋認識批判の壁画で神をフォーカスしていく行為は、総じて歴史の聖なる一回性だ。SF的な話に持ち込めば一応再現性はあるにはあるけど、歴史に刻まれるのは原則一回限りだ。書き換えること、書き換えられることも含めてね。


垂れ流しにもドラマはあるけど、本物のドラマは予定調和なんかじゃない。要するに醒め切った所にドラマは宿らないし、瞬間瞬間のパッションにこそ一回性のドラマが生じる。これはインスピレーションと言い換えられるし、またユニフィケーションとは裏表の関係だ。


神に迫っていくことが無条件にオープンだとは僕は思わないし、むしろ収束的要素を持っているだろう。但し要素が二つ以上あれば無限は成立する訳だから、神と我との間にカオティックな関係を結ぶことで世界を宿命の現場に変える、これを可能たらしめるのが人間の真骨頂じゃないのか。


無条件にオープンと言えば地上的なもののことだ。そこには当然カオスがある訳だけど、フォルムが欠けている以上「実」にはならない。神を絡ませない無限は虚構にしかならないし、それが俗にカルトと言われるものの本質で、すごく分かりにくい例えだけど、ビジュアルバムの荒城の月と同じ発想な訳。


一人で独立して注目した場合、ファンタジーは成立するかのように一見騙される。寺山修司三島由紀夫の対談を見るまでの、寺山修司への僕のイメージがそれだ。つまりロジカルな構造を持つ言葉(有形)が最後の最後に強い訳だし、カルトの美学(無形)は相対性を伴った時にイチコロで死んでしまう。


だから寺山修司的な魔法使いならぬ言葉使いは、割り切って楽しむものなのだ。以前と逆の発言かもしれないが、カジカジの巻末にしたってそうだし、デビッド・リンチもそう。インプットする分には構わないけど、それをアウトプットしようとは僕は思わないのだ。


だからラカンの「フロイトに還れ」じゃないけど、結局「神に還れ」に落ち着く訳。カルトというのは「行為を忘れた有象無象」のように僕は感じるし、「行為を賭けた芸術行為」の方こそを重んじるべきだと思うのだ。ある程度の欺瞞を含み込むとしてもね。


行為の有無で世界を虚実に分かつというのは少し傲慢だけど、大きくは外しちゃいないだろう。実の側に居る人間は神の淵で戯れているし、虚の側に居る人間は神の瀬で遊ばれている。この構図がハッキリするまではブルトンも良かったんだけど、今はもうシュールやダダへの幻想もないかなあ。