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THINK ABOUT SOMETHING.

全体の肯定≒全員の肯定

僕はあらゆるものの拮抗が現実を形造ると思うけど、仮に穏健派と穏健派の拮抗、過激派と過激派の拮抗の二種に大別したとして、どちらの方が深いリアリティーを生じさせるかと問われれば、絶対後者と答える。


例えば無欲の世界と欲の世界のどちらを選ぶか、と問われた時に、普通はみんな後者と答えるだろう。自殺願望でもない限り生きている時点で当然というか、生きるという行為は欲の肯定を意味するからだ。


少し強引だけど、穏健と過激をこれらに対置するとすれば、無欲が穏健で、欲が過激ということになる。ここから政治の話に飛躍すると、全部を立てましょうという理想が先ずあって、でも現実は全部の全体性を保障しましょうというのが精一杯な訳だ。


要するに、国民全員を幸せにするなんて到底無理な話で、全体を破綻させないように四苦八苦しているのが政治の実態だ。純粋政治批判というか、それが政治の限界で、ここからも過激派の方がリアルだと言えるだろう。


でもここで少し視点を変えてみて、「国民全員を幸せにする」を「体を構成する全ての細胞を肯定する」と言い換えれば、穏健と過激は逆転する。あんまり詳しくないのでアレだけど、善玉も悪玉もみんな認めるというのは、劇薬でもなければ無理な話だと僕は思う。


逆に「国民の全体性を保障する」を「体の統合を守る」と言い換えれば、これはもう穏健でしかない。一般人であれば偶に風邪薬を処方してもらったり、睡眠薬を飲む程度で体の統合は守られるし、そこに劇薬なんて必要ない訳だ。


だからこういうことだと思う。僕はメンヘラだけど、極端に酷いメンヘラは「体の統合を守る」のに考えられないぐらいの量の薬を飲むし、劇薬もそこには含まれるけど、政治の対象となる世界そのものは、それほど「病んでいる」のだ。本来穏健なレベルの目的が、理想のレベルに引き上げられてるからね。


考えれば当たり前のことだ。世界がそれ自体で健康であれば、人の政治は必要ない。神が楽園を築いて後はそこで遊ぶだけだからね。でも神が造ったこの世界は楽園なんかじゃなく、とことん病んでいるから、そこで人による自然否定が始まる。要するに、政治であり、「神は死せり」だ。


でも今度は人の限界も見えてくる。「体の統合を守る」程度の一般統合と、「体を構成する全ての細胞を肯定する」レベルの完全統合とがあるとして、政治においてこれらは同じレベルで語られる。世界は一般統合と完全統合の区別が付かないぐらい、ほとんどにおいて分裂してるからだ。


以前つぶやいた通り世界には個別の隣人愛が五万とあり、それらは遠人愛にほとんど結び付かない。こうなると片方で平和を求めておきながら、他方で戦争を認めてしまっていることになる。意識と無意識の混沌とした状態、政治と民意の対立した状態、綻びだらけの世界観だ。


それでも僕は民意の方が好きだし、それが人間らしさというか、そういうもんだろう。というかこれ自体が過激(政治)と過激(民意)の拮抗だし、そこに生じるリアルな世相は例え綻びだらけでも普遍的で、ドラマチックだと僕は思う。