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THINK ABOUT SOMETHING.

過ちを繰り返さないスピードで

以前にもつぶやいた通り、ロジックと正義は繋がってると思うけど、これは恋的なものからどんどん離れていって、愛的なものに流れていくということでもある。厳密には違うんだけど、要するに隣人愛から遠人愛への、完璧主義への個性の統合だ。


一方でそれは個性の圧殺を意味するけど、他方では無意識に働きかける導のような役割を持つ。つまり全員が個人主義者になっちゃって、全員が社会契約を捨てちゃうと無政府状態に陥るだけだから、理想と現実は両方存在しなきゃならない訳だ。


無意識に働きかけた理想、言い換えれば「かく在るべし」という理念はその人の中に潜在し、あちらこちらで断片的にストックされていく。そしてそれらの断片は人生のあらゆる局面で消費され、次第に審美眼が磨かれていく。


写実は抽象の前提だけど、僕等は全ての状況をロジカルに考えることなんてできない。だから割と曖昧な「美か醜か」で善悪を判断している訳だけど、この抽象的な審美眼は厳密なロジックの上に成り立っていて、言い換えれば僕等は歴史の上に立っている訳だ。


僕は歴史のことをこれっぽっちも理解してないけど、この前提が崩壊した時に「過ちは繰り返される」と思うから、最初につぶやいた完璧主義を帰結ではなく個性の保障、言い換えれば宿命の決壊作用として逆用するのが妥当だと思う。


要するに、完璧主義は無視できるものでもないし、しかしゴールでもない。その先に個性が始まり、そこから歴史を洗練していくのが芸術に他ならず、言わば歴史を眼前とするか背とするか、それが芸術家の分かれ目なのだ。


すごく大袈裟な言い方をすれば、歴史より速く走るのが芸術で、「かく在るべし」に「我在り」が勝る人のことを時代の寵児と呼ぶのだと思う。つまり浅田彰じゃないけど、ディシプリンの先に自由が宿るという訳だ。


そこに僕は神曲ならぬ戯曲の回復の可能性を見出す。「在るがままであれ」のその先には「我無し」が、「かく在るべし」のその先には「我在り」がある訳だけど、これは神の瀬と淵とも言い換えられ、即ち神の側にこそ我は存在し、それを取り戻す闘いがロマンスということになるんだろう。


神の対極に我があるのではなく、神と共に我があり、その対極には両方がない。僕はそれを流転と呼び、純粋詩を批判する根拠にしている訳だけど、更に言えばそこに居る隣人は虚構だし、従って上記の神と我を遠人と隣人に対置しても成立する訳だ。


つまり真の隣人愛も真の遠人愛も論理的決壊によって初めて成立する訳だけど、「在るがままであれ」には一切があり過ぎて、要するに、全然エロくないのだ。映画の男と女のラストシーンみたいなもので、綺麗なものの総柄は一瞬として、あるいは作品としてしか成立しない虚構なのだ。


僕はナルシズムとフェティシズムは紙一重だと思ってるけど、自分自身を磨き合う者同士の出逢いは必ずロジカルなものだ。少なくとも純粋詩ではないし、厳密な自己分析(ナルシズム)の裏返し(フェティシズム)として初めて成立するもの。


言わば映画の男と女のラストシーンがフリーセックス的カットとすれば、ベルセルクの蝕は濃厚なボーイミーツガール的カットということなのだ。ちょっと例えが不謹慎かもしれないけど、僕は後者の方が断然いいと思うね。