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THINK ABOUT SOMETHING.

自由とディシプリン

紐付けからの飛翔はディシプリンを前提として、自由を帰結とするけど、紐なしからの飛翔は自由を前提として、それ自体が枷になることを帰結とする。簡単に言えば子供が順を追って大人になるか、段階をすっ飛ばして大人になるか、その違いだ。


言わば「世界が無ければ我も無く、我だけならば世界では無い」に近い。自由というのは紐付けに紐付けを連ねたある一つの螺旋であって、その外側にあっては軌道もろくに定まらない白痴にしかなり得ず、前者をエロス、後者をタナトスと言い換えられるかもしれない。


まあエロスの意味もタナトスの意味も全然分かってへんけど、神=我に迫っていく所に自由が宿る筈なのに、その両者を捨ててしまうというのは正に精神的な自殺行為だ。主観の絶対化に近道はないし、踏み外すようにではなく、昇り詰めるように子供帰りするのがあるべき個人の精神史だ。


要するに、精神年齢の加齢を放棄することが自由なのではない。解放が自由でもないし、無条件が自由でもない。つまり自由というのは一瞬一瞬のデフォルメの連鎖であって、それはフォルムというステージ上でしか成り立たないものなのだ。


僕が常に考えていることに通底しているものは、自分の究極は自分にしか分からないということ、そしてその究極は逆説的に万人に通じているということ、これである。そしてデフォルメとはフォルム=我と矛盾しない精神のシェアであり、あるいはシングルセックス(SS)と呼んでもいいかもしれない。


これは自慰とはまた違うもので、独善でもなければ独楽でもない。つまり世界と我を異にするのではなく、我の中に世界を見出すような逆説が、シングルセックスだ。そして昔から何度もつぶやいている芸術的フリーセックスの境地、そこにはこのシングルセックスを通過せずには辿り着けないだろう。


程度の低いアブノーマルはそこまでだけど、アブノーマルを徹底する人間は普遍化のチャンスを神=我に見出す。つまり常識というのはオーダー(過去的)で、アブノーマルというのは突き詰めるとニューオーダー(未来的)で、後者の連中は参照するものを歴史ではなく個人史(SS史)に設定している訳だ。


そこにパラダイムの独自性というか、アブノーマリズムとでも言うべき他者との視差が生じる。つまり前例の共同化ではなく、前衛の共同化こそが僕なりの普遍化の解釈であり、これも全部を束ねると嘘になっちゃうけど、大多数の人間が救われるもう一つの道なのだ。


厳密には常識は一つ一つの選択の精度に関わり、視差は二つ三つの全体性に関わるから、単純に常識が自分への閉眼でアブノーマルが開眼を意味するという訳でもなく、常識の延長線上にアブノーマルが成り立つということなのかもしれない。そう考えるとこれらは別々の道という訳でもないかな。


そしてその最終的な領域で、村規模、町規模、都市規模のそれぞれのヒーローが生まれる。これは視差の大きさと地位が比例するという話ではなく、落とし所が違うだけで本質的には大差がないということで、世界の中で輝くチャンスは完璧ではないけど、思っているよりは遥かに平等ということなのだ。


認めてくれる人は一人でいいし、だったら世界はそれなりに平等だ。輝きの隣人は誰にとっても存在するし、村であれ町であれ都市であれ、その人だけに輝きの丈を浴びせられたらそれはとても素敵なことだ。だから僕等は博愛よりも純愛を目指すべきだし、それこそが人間の等身大の理想というもんだ。


神を目指して、我を覚って、何の棘があるものか。独楽。極楽。天の河。闇を払うのは僕の手で、光を描くのは君の手だ!