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THINK ABOUT SOMETHING.

神が生まれた瞬間

独我論という訳じゃないんだけど、斉藤和義っぽく言えば「誰もが誰よりも神話している」のが世界の構造だ。


我以上に尊いものを置かない所から、神話が始まる。言わば主人公を自分に設定し、主観を絶対化することで世界はその人の舞台になる。僕にとっては僕は主人公でも、誰かにとっては僕は脇役な訳だ。


神という言葉をあまり安易に使いたくないけど、世界が更新されていく前提に自分の生(我)があるのなら、我=神という式が万人万別に成立するだろう。自分は造物主であり、それ以外の一切は彼の被造物という訳だ。


彼が生き続ける限り世界は彼のものだけど、彼が死ねば世界もまた終わるのだ。但し「彼のもの」と言った所で、神話が全て喜劇やハッピーエンドとは限らない。神の絶対性は固有の制御にあって万有の制御にまでは及ばないし、そうでないと先の式と矛盾してしまうだろう。


確かに彼が動けば世界全体も一斉に動く。歯車的にね。しかしその最果てまでコントロールしているかと言われれば、どれもが結果論に過ぎないということになるだろう。


但し固有の制御を「シングルセックス」、万有の制御を「世界の書き換え」とするならば、シングルセックスというのはナルシズムの全体化の言い換えだから、この両者は対極のものではなく、最終的な領域では相通じている。


しかしその糸口は、想像以上に繊細で細いものだ。脚光に群がるのが芸能で、脚光を呼び寄せるのが芸術だと僕は思うけど、前者のやり方で世界に通じた所で、自分の外に主役を見出してる時点で結局すぐに破綻するだろう。


だから僕は後者を推奨するけど、芸術と言っても何も堅苦しくはない。「君だけが君を楽しめる!」を思想信条とし、徹底的に独楽を謳歌したその次に極楽がやって来て、そこを超えた最後にフリーセックスがやって来る訳だ。


つまりシングルセックス(独楽)は神(極楽)への前提で、その狭き門を潜り抜けた先に自由(フリーセックス)がある訳だけど、独楽が遊楽にすり替えられるとカルト行きになるだけだから、ディシプリン(紐付けられた階段)を楽しめるマゾにならなきゃいけないと僕は思う。


この「紐付けられた階段」というのは、万人に約束された自己究極への階段のことであり、その我なる彼岸は総じて極楽である、というのが僕の信仰だ。そしてこれを踏み外した所に楽園を築いたのが、ヒッピーだ。


ヒッピーを手放しで否定する訳ではないけど、彼等は底辺に堕りることで逆説的に価値を対等し、そこに居る万人を隣人にしようとする訳だろう。一夫一妻制の国に生まれたからかもしれないけど、これは凄く不純だと僕は思うし、輝きの隣人は本来一人でいい筈だ。


輝かないことで万人を隣人にする、というのは発明的だとは思うけど、それは表面現象にしかならないというか、流行としてしか消費されない。だから僕にとってヒッピーは反面教師ということになるし、しかしヒッピーの真逆を行けばいいという単純な話でもない。


紐付けられた階段を昇るという行為は、好きなことを見つけるとかそれをやるとか、そういう話じゃない。少し論点がずれるけど、内の母親は金銭的な理由でまともに学校に行ってない。それでも僕より綺麗な字を書くし、僕より全然口達者な訳だ。


つまり何が言いたいかというと、ヒッピーみたいに現場放棄さえしなければ「どこからでも我は形成される」ということで、結論としては要するに、「一つを極めろ」ということなのだ。即ち現場から我が見つかり、それが階段を可視化する訳だから、いきなり我にショートカットする道などないのである。


この場合の現場とは必ずしも社会を指す訳ではなく、ルーチンワークの外側に身を置いた者同士の、言わば「流転に逆らう共同体」のことである。そしてその現場が独楽になれば占めたもので、世界をディレクションできるだけの他者との視差が広がり始める訳だ。


人は生まれた瞬間、その瞬間同士の視差はゼロ(無意識)から始まり、そこから神=我との視差をゼロ(自意識)に到らせるまでを神話の前哨戦とする訳だけど、それこそが万人万別の「紐付けられた階段」のことであり、これはいかなる現場からも収束する仕組みになっていると僕は思う。


そしてそのコンバージェンスズハイが、デフォルメの最終的な決壊となり、各々の神話の狼煙となる。だから芸術が芸術家の独占物というのは誤解だし、この「神話に到るまでの物語」は全ての人にとって芸術行為に他ならないのである。


そしてそれ以降は「戯れ(jeu)」であり、あるいは「独尊(un jeu)」であり、ならば一切の存在は被造物となり、一切の偶然は必然性となり、然る世界を動かすのは造物主であり、造物主とは即ち自分自身なのだ。――つまり、神が生まれた瞬間である。