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THINK ABOUT SOMETHING.

引き篭もる理由

「一生遊んで暮らしたい」というのは、小さい頃なら誰もが一度は考えるだろう。もちろん僕もそう考えたことがあるし、その期間も結構長かった。今でもない訳じゃないけど、もうあんまりそこには駆け込まなくなった。


なってもない状態だからいくらでも言えるけど、僕は仮に一生遊んで暮らせる状態になったとしても、何かしらの形で社会参加はしてると思う。それは仕事かもしれないし、芸術かもしれないし、ボランティアかもしれない。


一生娯楽を消費するだけの生活と、何かしらの生産性に与する生活と、この二つを天秤にかければほとんどの人は前者を取るだろう。でも今の僕は後者を取る可能性があるし(完璧に言い切る自信はない)、「楽」と「苦」が釣り合うというのは、別に矛盾ではない。


娯楽と仕事が釣り合うのは当然「楽」においてではない。一口に娯楽と言ってもピンキリだけど、例えばジェットコースター型の消費なんて「楽」以外に何の価値ももたらさないし、ある程度精神が鍛錬されるような娯楽でも、遊びの世界に閉じ籠ってたら結局意味がない訳だ。


翻って仕事となると「苦」が先ず表面にあって、その奥底に様々な「真価」が咲く訳。いやいや仕事やってる人は一生そこにアクセスできないけど、大袈裟に言えば使命感だとか、宗教的に言えば隣人愛だとかでそこにアクセスさえできれば「苦」は先ず問題ではなくなる。


要するに、「楽」の一部が前倒しされて「苦」が相殺される訳。言わばサウナの中で想像する水風呂みたいなもので、「苦」がなくなれば後は最後の「楽」が待っているばかり。これはマゾヒズムまで極端ではないにしても、早漏には絶対楽しめない大人の嗜みだと言えるだろう。


この場合の「楽」とは「真価」の言い換えだけど、それが分からない子供はやはり「一生遊んで暮らしたい」という幼稚な考えに行き着く。もちろん分かるだけで大人になるという訳でもないけど、これが可視化できなきゃそもそも話にならない訳。


ちょっと単純だけど、仕事してることで誰かが助かることを想像するだとか、芸術することで誰かが啓発されることを想像するだとか、ボランティアすることで誰かが笑顔になることを想像するだとか、そういうハッピーなもの全般にフルアクセスできれば、社会は断然楽しくなる。


モラトリアムというのはこの表面的な「苦」にばかり視線が行きがちで、奥底の「真価」まで俯瞰する能力が欠けている訳。あるいは見えていてもリアリティーが伴わなかったり、やらず嫌いしてしまってる訳。


但しそれがリアルになったり、食指が動くようになったりするのは自然現象だから、家族が強制するものでもない。例え大好物な食べ物でも無理矢理口に突っ込まれたら誰でもキライになるし、あらかじめマズそうだと思ってる食べ物なら尚更だ。そこに手を伸ばすのは本来時間が掛かる訳だ。


僕がメンヘラになって痛感したのは、こういう「自力の時間」をできるだけ与えようとする親が理解のある親で、逆にどんどん削ってくる親が理解のない親だ。そこには家庭事情も絡んでくるけど、切羽詰まってもないのに時間を削る親は明らかに間違っている。


論点が少しズレたが、例え平和ボケだと言われようとも、自然の芽は自然に育てなきゃいけないし、それが目先の「苦」ではなく、世界全体のハッピーにアクセスできるような華に育てば、すごくドラマチックじゃんか。親ができるのはあくまで「枯らさない努力」をすること、そこだけだと思うよ。