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THINK ABOUT SOMETHING.

黄金律は最終論じゃない

「ハッピーなものは華。それがハッピーだと思える君もまた華。そういう君達の集合が楽園となり、誰もが憧れる繁華街になる。だから振り向くよりも前に進もう。堕ちるよりも高く飛ぼう!」


ある神学者は「人々次第で世界は今すぐ楽園になる」と言ったけど、彼が言いたいのは多分、こんな感じのことだろう。でも足を引っ張る連中が一人でも居る限り、これは壮大な夢物語にしかならない。


全部をロジカルに考えることはできないから、僕は時々善悪を美醜で考えるけど、この超単純で超壮大な夢物語は、美の一種の最高峰だとは思うよ。黄金律って言うのかな。でも目の前にあるように錯覚させといて実際は高根の華って言う、恐怖も同時に孕んでる訳。


難しい話に入るけど、因果律が一対一じゃないから、黄金律は時に破綻する訳。究極的には一対一の筈なんだけど、世界で同じことは二度と起こらないから、ある程度の条件の不揃いは受け容れるしかない。


しかしそこが因果律と黄金律のズレに繋がる。黄金律の本来の意味は「人からして欲しいと思うことのすべてを人々にせよ」だけど、これは多くの場合全体をハッピーにするけど、それは100%の確率ではない。要するに、原因と結果が一対一ではない訳だ。


むしろ一対一どころか一対無限(ANSWER iS ONES)だし、その時点で一つのルールを全体に強いることは、できない。宗教の限界だね。もちろん黄金律と言うぐらいだからある程度収束するのは間違いないけど、全く外さないということでもない訳だ。


僕は何か行動する時に、参照する内面の万象を「神」と呼んでるけど、これは全然客観的じゃないし、毎回答が揺れ動いている。前述したように、条件の不揃いがあるからだ。そう考えると黄金律は神の幹に据えるバランサーであって、刻々と変化する枝葉や華(動機)にまで及ぶものではない訳だ。


行動原理を一から築く時、宗教は基本的に強いけど、それを最終的な動機にまで及ばせるのが一番低俗な「信仰」だ。そこでは内面現象が死んでいて、枝葉や華が枯れていることに全く気付かない。簡単に言えば黄金律に根差した、あるいは頼り切った思考放棄だ。


自ら思考しないと立派に筋も通らないし、神全体が萎えていくだけ。いつまで経っても高みには到達しないだろうし、自由にもなれない。だからと言ってルールを一切捨ててしまうと、ほとんどの場合カルトになっちゃうだけ。


これら前提を踏まえた上で、問題はどんなレベルの黄金律を幹に持って来れるかだけど、「人からして欲しいと思うことのすべてを人々にせよ」にしても「汝の隣人を愛せ」にしても、動機の調整者として不十分というか、なんかこうクリティカルじゃないんだよなあ。