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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

アクションゲームの分かれ目

雑感 批評 ゲーム

アスラズラースはやってないから分からないけど、おそらくスタイリッシュアクションの系譜だろう。その時点で文法的に煮詰まってるし、プレイ前に大体のプレイフィールが読めてしまう訳だから、どこかの雑誌が高得点を付けない限り、売れないと個人的には思っている。


僕はまあ、個人的にはベヨネッタは好きだよ。名作の範囲に入る。でもあれが40点満点を取るのは、まあ論外だね。以前ベヨネッタが何故ダメなのかつぶやいたことがあるけど、それはおそらくアスラズラースにも言えることだし、自分が敵を倒してるというよりシステムが敵を倒しちゃってる訳。


要はキャラクタースキルとプレイヤースキルの比率において、前者にお手柄の大半を持っていかれるようなゲームバランス(デザイン)なのだ。皮肉な意味でのその最高峰は無双シリーズであり、あれこそ浅田彰の言う「無条件な自由は大体同じ動きになる」を物語っている。


スタイリッシュアクションと無双シリーズはベクトルが違うけど、どちらもアメコミ的な、主人公だけ例外的に強いというゲームデザインで共通している。その時点でディシプリンが欠けてしまうし、ダークソウル的な自己発見は変な制約プレイでもしない限り、先ず起こらない。


ダークソウルが優れてる理由は、「キャラクターをコントロール(支配)する」というゲームの大前提を律儀に守り、その上で「プレイフィールに再現性がない」という点にある。例えばファミコン時代ってステージ単位で毎回同じ動き、という攻略が割とあったが、いい意味でそういうお約束がない訳だ。


これは乱数の有無とかそういう問題じゃなくて、昨日と今日とで世界(ゲーム)の中での立ち振る舞いが変わるということだ。翻って過去の発言の繰り返しになるけど、ベヨネッタにはカスタマイズの要素はあったけど、そこにプレイフィールが紐付けられてたじゃんか。


要するに、ビルド単位で毎回同じ動きだったじゃんか。もちろん理詰めを詰めるだけ詰めたら最終的に大体同じ動きになる、というのは当然だけど、末期とは対照的に初期の頃はプレイスタイルがばっらばらになる、というのが例えば格闘ゲームだ。それがベヨネッタの場合、初期の頃から似通ってしまう訳だ。


それは理詰めの余地が狭いからそうなるのだと思うし、超人的な能力それ自体で攻略が完結しちゃってる訳だ。だから理想としてはプレイフィールはプレイヤーの側に紐付けるべきだし、それが本来のロールプレイというものだろう。


キャラクター(厳密にはビルド)は変化しないけど、プレイヤーは刻々と変化する。その変化しない側に変化する側がコントロール(支配)されちゃうと、ムービーゲーと何も変わらない。ほんのちょっと能動的になっただけのことで、本来の主従関係が逆転してしまってる。


そういう意味でベヨネッタとかアスラズラースが満点付近というのは先見性が全くないし、批評眼がズレまくってると僕は思う。突き詰めると勝因をセルフコントロールするかコミットするか、自己流かごり押しか。そこがアクションゲームの王道邪道の分かれ目かもしれないね(ちと言い過ぎか)。