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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

データベース更新型へ

ユニクロのCMがキライな理由は、方法論化されたデータベースを参照してるだけなのに、言い換えれば特権階級の飛び道具に過ぎないのに、芸術性を確保しないままドヤ顔してる点にある。僕のHPのトップにもその要素はあるし(それ以前のレベルか)、人のことは言えないけれど。


ナイキと同じ匂いが一瞬してしまうのだけど、厳密に見ていけば無難に一つ一つを積み立てるだけのエリートでしかないというか、その人間の固有性が全く作品(CM)に現れていないというか。これはCMの宿命かもしれないけど、ナイキは商業性と芸術性をちゃんとバランスさせている。


僕は選択肢を自分の中から取らなくなったら、クリエイティブな仕事は終わりだと思う。もちろんこれは理想論だし、記憶の断片(要は引き出し)を頼りに作品を繋げていく作業は誰でもやるけど、その全体に一本の筋を通す強烈な自我がないと、できすぎ君が描く絵みたいにしょうもない作品にしかならない。


どんなジャンルでもそうだけど、レベルが底上げされると逆につまらなくなるだろう。システマチックになって平凡な取捨をして、データベースにはキレイなものしか残らなくなり、その結果レベルの底上げを代償に全部予定調和に収まるというか、みんながみんな似たり寄ったりになり先が読めてしまう訳だ。


テレビ観てないけど、今のお笑いが正にそうだろう。データベースに頼り切ってるというか、発信者側の人間がカタログアートしてどうすんねんっていうね。もちろんその組み合わせが独創的ならジャンクアートやヒップホップみたいに正当化されるけど、ほとんど模倣の域を抜け出れていないのが現実だ。


ゲームで言えば核となるデザインを俯瞰できないからグラフィックや音楽を強化し、言い換えれば埋めれるものを一つ一つ埋めていって中身の空っぽなエリート作品ができるようなものだ。これで業界が成り立ってしまうと、今まで「A≠B≠C」だったメーカーが「A=B=C」の時代になる。


先の方法論の話に戻ると、取捨の基準がない黎明期はみんなスタイルが違うけど、時代がやがてそれをシェイプし、洗練されたデータベースができあがる。一流のクリエイターであればそこにアクセスできるのは当然で、これが「好き」という気持ちの一つの到達だろう。正常な歴史観と言い換えてもいい。


但し今まで何度か言ってきたように、一つ一つの選択は割と似通ってくるけど、二つ三つの選抜(≠選択)になると一気に答がバラける訳で、それがディレクション(芸術行為と言い換えてもいいかな)の肝に他ならない。つまり好きという気持ちは差の識別には役立っても、構成の妙には関わらない訳だ。


例えば料理する時魚より肉、リンゴよりメロンという感じで一つ一つ選択していき、それらを組み合わせて調理したらとんでもない料理になるだろう。肉より魚を取るべき料理もあれば、メロンよりリンゴを取るべき組み合わせもある。だから好きという気持ちは最終的にはほとんどなんの役にも立たない。


何がそのジャンルにおける肉なのかが見え始め、なにもかもを肉肉肉……とする状態がジャンルの末期症状だろう。そういう意味では創作には常に「迷い」が要るし、その迷いを征するのは「自我」に他ならず、即ち作品の全体性を保障するのは外部参照ではなく、内部参照でしかあり得ないのだ。


ゆえに僕の中では愚者は歴史を汲み、賢者は経験を汲むという逆説になるけど、外部参照の歴史が二流の芸術、内部参照の歴史が一流の芸術だとしても、これらは円環的な輪廻の構造にはなってるのかな、とは思う。要するにイコールの連鎖が先ずあって、その母胎がノットイコールを産む訳だ。


逆説的だけど、データベース消費型のシンセシスアートが先ずあって、その上で初めてデータベース更新型のアナリシスアートが成立するのだと思う。前者はキレイなものに限定した総柄であり、統合的で、後者は黎明期まで遡った全ての参照であり、分裂的である。


但し黎明期まで遡って全てを参照するというのは、厳密には間違いだ。森羅万象にアクセスできる力、それがない人間は外部参照に逃げる訳だけど、この力は単に全てを選択肢に含めるという話ではなく、全てに対して優れた自浄作用が働くかどうかということだ。


つまり、歴史観の最も平凡な形である、先人史型の共同のデータベースと、歴史観のもう一つの形である、個人史型の独自のデータベースとがあって、どちらもキレイなものが整理されている訳だけど、前者は先人によって浄化された残滓であり、後者は個人によって自浄された結果な訳だ。


この自浄作用の結果を俗にオピニオンとかアイデンティティーとか言う訳だけど、それが先人史型のデータベースを否定できるようになる所からディレクションの才能が始まるのだと思うし、これはあくまで最低限のボーダーラインに過ぎないけど、一流のクリエイターはみんな凌駕してるんだぜ。


結局芸術家には「捨てる才能」が要るし、自浄というのは淘汰の言い換えに過ぎない。ピカソにはそれがなかったからゲルニカを造ってしまった。あれがデータベース消費かどうかはともかくとして、少なくともデータベース更新として受け止める芸術家はヘタレだと思うよ。