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THINK ABOUT SOMETHING.

ディレクションの根拠

ふと思ったんだけど、普通とは違う行動原理で動いてる人間って、その行動の是非はともかく、鑑賞対象として面白い。例えばマイク・タイソンとか、三島由紀夫とか、デュシャンとかだ。


彼等の行動原理の何が違うかと言うのを最近考えてたんだけど、要するに相対的な自分じゃなく、絶対的な自分を守り抜こうとする意志の有無、そこに答は集約されてると思う。言わば自分は自分で規定し、社会に規定されるものではないというような、単純にして偉大な原理がそこにはある。


僕は三島同様、宿命からしか自由にはなれないという考え方だけど、ナルシズムというのは自己規定の絶対化を狙う遊戯であり、それは宿命に繋がっている。そしてフェティシズムはその絶対性を他者(延いては世界)の中に対称させる遊戯であり、「在るの革め」と「愛すの革め」は紐付けられているのだ。


昨日のゲーム論じゃないけど、「在る」の究極は誰にでもアクセスできる。半ば自動的に集積されていき、しかしもう半分は自らで勝ち取らなければいけないような、自己美学の究極と言い換えてもいい。そしてこれも昨日のゲーム論同様に、集積を共有した共振がどんどん世界を輝かせる仕組みになっている。


但し上述の通り、それは半ば自動的に集積されるので、半ば無意識的に世界は輝いている。言わば「在る」限り(言い換えれば死なない限り)美への執着は残っているので、それをディシプリンとすることで世界は廻り続けるということで、自殺というのはその諸々が崩壊することに他ならない。


しかしもう半分は自力で勝ち取らなければいけないので、片手落ちの輝きを無意識じゃなく、意識的に高める必要がある。これが多分「学問の本質」で、流転と自転の比率を逆転させるということなんだけど、例えばデュシャンのアートが自転的かと言えば、実は自転的で、美学に根差している。


純粋ダダや純粋シュールという言葉があるかどうか知らないけど、そういうものは僕はあまり好きじゃないし、何の期待もしていない。但し美学というのは「かく在るべし」の言い換えであり、「かく在るべしを捨てるべし」もその範疇だから、デュシャンは逆説的に、自転的だと思う訳。


純粋というものを僕は時々批判するけど、僕は純粋をフリーフォームと読み替えてるからそうなる。例えば純粋ダダをやってる人間というのはフリーフォームでダダをやっていて、ディシプリンを一切導入しようとしないから、形を成さずに滅びるだけなのだ。


もちろんダダはそれ自体が「かく在るべしを捨てるべし」を内包してるけど、それをディシプリンと見るかフリーフォームと見るかで評価は大きく分かれる。前者は「宿命(紐付けられたもの)からしか自由になれない」に通じていて、しかし後者は単なる垂れ流しにしかなり得ない。


そしてこの宿命観をより高次にする為に、自愛と他愛をシンメトライズし、何もかもが発見であったような少年時代を復活させなきゃならない。そしてそれが共同化された前線で、無意識の遊戯を意識の遊戯に転回し、人間の最大の文脈に与さなければならない。


少年時代の終わりと子供帰りの始まりが、上手く繋がらずにそのまま斜陽に到ることを「世俗」と言い、逆に意識化できればそれを「芸術」と言うのだと思う。この二つの間に青春が挟まって、純粋ダダという誘惑に負けちゃうと、往々にしてそうなる訳だ。


但しこの意識化するか否かの瀬戸際で仮に意識化できなくても、「在る」ことの本質を見極めればいつでも子供に帰って来れるというのが僕の信仰だ。「在る」時点で美学もまた「在る」訳だから、それを世界全体とシェアできればそれが「愛す」ということになる。


未だに純粋の対義語が分からないんだけど(少なくとも不純ではない)、仮にそれを「形式」と呼ぶのなら、これは盲目の純粋隣人愛ではなく、何かを見据えた形式隣人愛と言っていいだろう。言わば「かく在るべし」が普遍化する喜びであり、冒頭で触れた三人の行動原理は、全てここに集約するのだと思う。


この「見据えている何か」というのが多分、僕が散々言ってきた「ディレクションの根拠」だと思うのだけど、それは万人万別のものだから、具体的な道筋を提示することはできない。但し曖昧でいいのなら、他者との視差を究極させていった所に宿る逆説の普遍性、そういうものじゃないのかなとは思う。


パララックスの究極はゼロパララックスであり、その逆説を普遍化するのが芸術行為に他ならない。これこそが芸術の最高峰の文脈であり、例え間接的であっても精神史に多大な影響を与える真価だと思う。三島的な意味での行為というのは全てここから汲み取られ、同時に受け継がれていくんじゃないのかな。


以前にもつぶやいたことがあると思うけど、あらゆる状況に対応できる行動原理なんてものは存在しない。だから美醜や損得を感覚的に判断し、美か得の側に身を置くことでほとんどの人は生活している。


そういう感覚的なものを含む以上、行動原理が同一化するという現象は100%起こらない。例えば「汝の隣人を愛せ」にしたって、それを実践するべきだと判断する状況は分かれるし、実践した人の数だけプレイフィールというか、コンプレックス(心的複合)が存在する訳だ。


これは同じ本を読んでも、人によって観念が同じものにはならないようなもので、ゆえに行動原理の是非を問わず、全てのそれは言葉の上では同じでもオリジナルにならざるを得ない。言い換えればパララックスの究極は人の数だけ存在し、普遍化のカタルシスもまた人の数だけ楽しめる訳だ。


僕が考える善悪のモデルというのは、先ず意志の源流である「楽園への意志」というのがあって、そこに与さない「在るがままであれ」が悪=停滞で、そこに与する「かく在るべし」が善=輪転というもの。即ち「宿命でしか自由になれない」に向かって行かない者を、僕は悪の因子と見做している。


パララックスというのはこの善の方向にしか築いていけないというイメージを僕は持っていて、その半分は無意識的に形造られ、もう半分は自力で形造るものなのだ。言わば無意識的に形成されていったものが青春で廃れるか、意識的段階に転回できるかで最初の善悪が決まる訳だ。


「在るがままであれ」に留まる人達はフォルムを失ってるから、どんな動きを取ろうとしても必ず類型化されてしまう。ゆえにパララックスは悪の方向には萎縮し、善の方向には拡大する訳だけど、その究極の所で普遍化のカタルシスが起こる根拠は、世界の第一義が善であるという点にある。


即ち聖なるものは普遍的なものに汲み取られ、その核心で不特定多数への神話的元型と化す。芸術と芸能が腐れ縁である根拠はここにあって、但しメディアの為に芸術がある訳ではなく、芸術的共振を最大化する為にメディアがあるのであって、言わば芸能界も一種のモンハンなのだ。