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THINK ABOUT SOMETHING.

その名前、絶対につき Pt.2

要するに、ネーミングとは観念の収束的対置であり、絶対的なメタファーなのだ。そしてメタファーの根源に迫っていくのが、想念であり、本質の確定作業であり、対象の第一義はその彼岸へと集約され、そこで初めて観念の唯一性が立ち現れるのである――原理的なもの、あるいは神話的なものとして。


言い換えれば観念は最終的に同一性に還元される。上述の通り、個々の観念はその彼岸において唯一性に紐付けられるからであり、そして名前はその絶対性の入り口であり、優れた批評・空想は深奥までを的確に描写する。言わば名前は観念の表題であり、観念は想念の元型なのだ。


そして想念は観念によって定型化される。この定型は観念をゼロとし、悪を無限としたフォーカシングであり、絞られれば絞られるほどむしろ自由で、その逆の方向では類型化されるばかりなのだ。最果てにおいては薄く、曖昧で、朧なものにしかならず、決して鮮やかではない訳だ。


これは読書で考えれば分かりやすく、子供ほどその想念は曖昧で、大人ほどその想念は鮮明化、延いては同一化されている。以前にもつぶやいたけど、大きい方向に向かうというのは見せ掛けの自由にしかならないし、即ち子供の想念は純粋自由が散らかした残滓であって、唯一無限への収束ではないのである。


しかし想念は決して観念にはならない。しかし想念は観念を同一化せざるを得ない。欲望的には偶然の平均として、即ち自然発生的なものとして、自我的には必然の集合として、即ち自然淘汰的なものとして、二つの形式においてそうならざるを得ない。


前者の自然発生的なものが借り物のデータベースとすれば、後者の自然淘汰的なものは我が物とするデータベースであり、そこでは正反対のことを唱えていても、同一性に還元される。厳密には程度にもよるけど、描写が極まれば正反対の記述をしていても、同じ事実の別の表現ということになるからだ。


前者の共同的な同一性ではなく、後者の千差万別の同一性に向かうのが、ユングが言う所の個人化だろう。そういう個人化された観念を網羅して、言い換えれば本領発揮して、同じ事実を自分の言語、自分の表現で記述する総合が、芸術であり、誰一人として例外なく「自分だけの前線を所有している」のだ。