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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

遠人愛を疑え

元々ないものが欠けていても人間はそんなに悲しまない。例えば目の見えないコウモリとか、色覚がない犬とか、それを悲観することはない。でも元々あるもの、あったものとなると、欠けた途端コウモリでも犬でも絶望するだろう。


目の前で悲劇的なことが起きて、それに対し泣き崩れるという心理、例えば911の報道で泣いていた人とかが僕はあんまり理解できないけど、そこで失ったものが家族とかなら全然分かる。というか当たり前のことだ。


この元々あったものの所有感みたいなものが大きければ大きいほど、当然感情も大きくなる。知人よりも友人、友人よりも恋人、あるいは一年よりも二年、二年よりも三年といった具合にそうなる。だから知人レベルの悲報で泣いてたら僕は逆に怖いと思うし、怒るのも的外れというか、空回りな気がする。


よくある構図として、恋人とか家族が被害者になり、遺族がそれと闘うというのがあるけど、それに只の知り合いが参加してたらかなり変だろう。911の報道で泣いていた人とイメージ的に被ってるし、そういうのは空回りにしかならないというか、感情的な実質が伴わなくなると思う。最終的にはね。


僕が最近思うのは、感情的な実質が伴う範囲だけをきっちりやれば、後はだらしなくても構わない。政治家の場合は分かんないけど、一般人ならそこまで行動範囲を絞って全然構わないし、それを越えると只の野次馬だ。全部だらしないのは問題としても、やるべきことをやっていたら、それで全然いい。


どんな局所的な所にも、ほとんどの場合はこの隣人愛が働いてると思う。助けてくれる人が部外者だけ、天涯孤独という例ももちろんあるけど、そこにはそこの隣人感情が働くだろう。僕は隣人愛で人類が手を繋ぐみたいな幻想は持ってないけど、遠人愛よりはこっちの方が遥かに健全だと思う。


例えば自分が死んだ以降になり立つ理想とか、誰が所有感を得られるんだとか思う訳。小説だと割とありがちな、自分の命と引き換えに何かが救われるとか、少なくとも僕はどうでもいい。そういう人間が多数化して、世界が変わるなんて幻想は永遠に実らないだろうな、と正直思う。


そういうものを今の日本で所有するのは、ちょっとというか、かなり無理がある。簡単に言えば元々あるもの(隣人愛)と元々ないもの(遠人愛)という大きな隔たりがあるから、所有感なんて騙し騙しでしか得られない。虚勢はそんなに長持ちしない。


だから感情と行動が一致する、身近な家族などの範囲で立派なことをすればいい。そこさえ守れば後は適当でいいし、むしろ適当の方がいい。安易に首を突っ込んでも野次馬意識にしかならないからだ。所有してる実感と行動の衝動は噛み合うし、そこさえ健全であれば、後はいい加減でいいんだと思うよ。