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THINK ABOUT SOMETHING.

ディレクションに到る物語

ドラゴンズドグマを軽くプレイしてみた。そこで思ったのが「全てが凡庸なゲーム」だということで、独断で責任を負うディレクターの気配を感じられなかった。


常識的な判断、本命の判断で総合された、最近のFFに近いクリーンアートと同じ印象を持った。一人の独断でぐいぐいと衝き動かすのではなく、責任の所在を分散するような、当り障りのないクリエイション。まだ序盤も序盤だけど、ムービー一つを取ってみてもそれは読み取れた。


これは理想論だけど、本命の時は本命を、大穴の時は大穴をきっちり取っていくのがディレクターだ。そして大穴というのは局所的かと思いきや、細部(馬券のバリエーション)を見渡せば案外いくらでも転がっている。


この細部の詰めの部分まで本命で埋めちゃうと、神は何処にも宿らない。本命で脇を固めるのは当然としても、大穴的な乖離=細部へのポリシーがなければ、全体としての馬券=作品がいくら本命尽くしでも、破綻する。要するに期待値を下回り、結果が出ない訳だ。


ドラゴンズドグマはモンスターデザイン一つを取ってみても、世界観一つを取ってみても、「突き抜けた何か」が全くない。全部本命で埋められちゃってる。オープンワールドに本格的なアクションを、というのも特に新鮮じゃないし、なんというか「ギリギリ期待値守れました」というようなデキでしかない。


競馬で例え切るのは少し無理があるかもだけど、ガチガチの本命ばっかり取っていって、その中間レースは全てスルーする設計思想と言うか、あるいは一つの命題(1R)の馬券バリエーションの本命(基本的にこれは細部の反対)だけを取っていき、細部の大穴は埋めない空洞化と言えばいいのかな。


細部に拘りだすということは、ディレクションする、一人が独断する、責任を負うということだけど、大局(単勝複勝)を本命で固めるのは妥当としても、細部(三連複三連単)は組み合わせの妙技であって、最高峰から順次切り崩していく=本命を上から並べるだけでは基本的に取得できない。


ここで僕は何度も言ってるけど、それこそが一つ一つの選択ではなく、二つ三つの選抜に他ならない。最高峰から順次切り崩していく創作(一つ一つの選択)は責任を分散できるけど、細部の神を順次確定させていく創作(二つ三つの選抜)は責任の所在がハッキリするから、特別なビジョンが不可欠。


そういう意味ではインスピレーションとディレクションは同義語だ。他人以上にビジョンが明確じゃないと独断でぐいぐい衝き動かすような創作はできないし、その実力が重圧に勝ることをディレクションと言うのなら、その手前で本命に逃げることを現場放棄と言うのだと思う。


責任をどんどん取っていける人というのは、結局ビジョンに裏打ちされている。言わば一瞬一瞬のインスピレーションが、何らかのビジョンと紐付けられている。それは観念かもしれないし、感情かもしれないし、思想かもしれないが、暴力一つを取ってみても暴力の観念、暴力の感情、暴力の思想と全然違う。


この三つが全てとは思わないけど、ディレクションの入り口は一択ではない。そういう意味ではディレクションへの途は万人に開かれてるし、好きな物語に自分を属せばいい。ユングの類型論に還元するなら感覚型が観念、感情型が感情、思考型が思想になるだろうし、直観型は全部を横断する形になると思う。


世界でこれができてる人は感覚型だと宮本茂、感情型だとマザー・テレサ、思考型だとアルマーニ、直観型だと三島由紀夫辺りになるけど、先ずは自分のタイプを把握し、その最大値の人間の立ち回りを学ぶ所から始めれば、ディレクションの権利は手に入るし、それが普遍的な「生の到達」だと僕は思うぜ。