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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

『狭き過去(文法)』と『広き今(文脈)』

VITAのビームスデザインのポーチを買った。そこで漠然と思ったのが、デザインはまあまあいいんだけど、結局「既存のデザインのデジャヴでしかない」ということだ。ビームスは服も好きなんだけど、最近「ハイ・ユニクロ」みたいなイメージになりつつある。


要するに、ぐるぐると同じような所でローテーションを組んでるというか、その一端としてこのポーチがあるんだな、ぐらいにしか思えなかったのだ。それこそが最近つぶやいた「プロの作業領域」に近いと思うんだけど、この言葉には厳密には定義が二つあると思う。


一つは「あーでもないこーでもないを狭く絞った創作領域(個別的)」、もう一つは「大きく外さない同じような創作領域(還元的)」だ。いくらか意味が重複してるとは思うが、前者が問題に対し個別的とすれば、後者は問題をその作家の文法に還元する。


大きく外さないということは「飛躍しない」ということであり、同時に「自己文法に律する」ということでもある。そしてボキャブラリーというのは詩的表現や古語より日常語の方が圧倒的に多い訳だけど、それ自体を強度あるものに変えられたらある意味で「日常無双」になる。糸井重里のことだ。


糸井重里は「大きく外さない同じような創作領域」のスペシャリストだと個人的には思うけど、そういう核みたいなもの、言い換えれば「呼び水(必然性)」があって初めて宙ぶらりんの日常語(偶然性)を汲み取れる。だから厳密には彼も「狭さの人」であり、しかしこれは決してネガティブな意味ではない。


またこの還元的創作だけで全てを処理できる訳ではなく、個別的創作を要求されることもある。厳密には前者を文法依存、後者を文脈依存と呼ぶとすれば、両者は相即していて、前者の依存で後者の依存を終わらせるというか、そのプロセスを切り取ったものが「狭く絞った創作領域」ということになる。


即ち還元だけではカバーし切れない範囲が個別的な創作だけど、それも結局は還元できる範囲を軸足として、文脈制覇される訳だ。言わば「これをやってあれをやって(必然性)、初めてそれが見える(偶然性)」の「これ」と「あれ」が文法依存で、「それ」の部分が文脈依存を終わらせる「狭さ」なのだ。


要するに、還元(必然性)でほとんどをカバーできるのが文法依存であり、宙ぶらりんの領域(偶然性)から答の大部分を出さないといけないのが文脈依存であり、そう考えると「文法を広げていくこと」と「文脈を征していくこと」は同義で、偶然性の組織化が必然性を強化していく構造があるように思う。


結局最初に言いたかったことが何か忘れてしまったけど、先ず第一に必然的な創作領域があって、ヘビーローテーションを組む中に、偶然性が紛れ込むという構造を僕は信じる。即ち必然的な絞り液=カタルシスの積み重ねにこそ、インスピレーションという偶然的な到達がある筈なのだ。


仮に宙ぶらりんの領域から答の100%を導かないといけない問題があるとすれば、それは端から無理だと割り切った方がいい。最低限の軸足は必ず要るし、それが答の大部分を元より埋めている場合、それはその人のテリトリーと言える。


軸足があって初めて闇雲な暗中模索をすっ飛ばせるのであって、全部が偶然性の所で勝負するというのはパスワード解読における、ブルートフォースに近い。但し人間の場合それをやるには一つ一つの処理速度が遅過ぎるので、「勝算(メソッド)が全くない」エリアということになる。


多少の必然性というか、「心当たり」があって初めて模索の精度は上がる訳だ。これは性欲を軸足とした妄想の手応えとメカニズム的には近いし、手応えがある方へある方へと向かうことができる最低限のメソッドは、必ず要る。そういう意味で僕は創作はするけど、今更将棋はやらない訳だ。


そしてこの勝算の範囲(テリトリー)は、歳を取るごとに拡張されていく。性癖が狭くなることはあまりなくても広くなることはよくあるように、当てはめられるメソッドは増えていく。要するに自慰って結局同じような所をぐるぐるする訳だけど、そこから新しいアタリを自然推移的に付けていく訳だ。


この自然推移の部分は自分ではコントロールできないと思う。ある前提があってある帰結が好きになるという順序は飛ばせないと思うし、その詳細なルールも自分では分からない筈。「振り返ればこうなってた」がほとんどのケースだろう。


できることと言えば「同じような所をぐるぐるする」という、基準点となるような所で遊びまくることだ。そしてあらゆるものにメソッド(楽しみ方)を当てはめられるようになった状態を、「自己文法を掴んだ」と言うのだと思うし、そこまで行けば世界は断然楽しくなる筈なのだ。