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THINK ABOUT SOMETHING.

ロッククライミングに見る天才の定義

職場で「いえいえ」と発言した時に思ったのだけど、僕の言葉遣いは割と曖昧で、言葉の本来の意味から外れてることもよくあると思う。それでも「いえいえ」という言葉が出てきたのは、「これでイケるんじゃないか」という直観が来たからだ。


日常会話というのは芸術にはならなくとも、直観と直観のぶつかり合いだ。ロジカルに思考してるヒマなどないし、かと言ってイロジカルだと会話にならないし、場当たりじゃないけど「出てきた言葉を即座に流す」ような技術が要る訳だ。


僕はこれは芸術にも当てはめれる気がした。即ち天才は「常人離れした何か」をしているのでは決してなく、むしろ「当たり前の何か」を人と違う所で繰り広げてるだけであり、例えば僕ならライト哲学みたいな分野には少し通じるけど、これも上述した技術を当たり前に処理してるに過ぎない。


何が違うかと言えば「人よりも明るい分野がある」というその一点のみであり、リアルタイムでの凄さというのは全然ない。厳密には直観というよりも自動書記に近いし、その自動書記そのものの才能を磨くというよりは、自動書記できる分野を切り拓く方が「筋」だと思うのだ。


例えばロッククライミングである一線まで昇る前から、即ち地上の時点からある一線以降の昇り方など見える訳がない。一筋の自動書記をルートと見立てた場合、それは人より明るい視界が開けて初めて成立する。そこん所の乖離が天才に繋がるのであり、一度乖離すればそこで当たり前のことをするだけ。


糸井重里的に言えばそれが「天才領域」だろう。これは領域そのもの、言い換えればリアルタイム処理に凄さがあるんじゃなくて、昇り詰めたプロセスの方に天才たる所以がある。処理そのものは何度も言うけど当たり前の、それこそ日常会話のキャッチボール程度のことしかやっていない訳だ。


「これでイケるんじゃないか」を最前線でやるテクニック。それを持ち合わせた連中を天才と呼ぶのであって、そこに到るまでは誰もが凡人に過ぎない。これは「専門家であれ」とかいう話とは微妙に違うし、「当たり前のことを最高のやり方でやれ」ということを僕は言っている。


専門家は只の技術論者であって現場論者ではないし、当たり前のことを最高のやり方でやる為には、この両方が機能しないと成立し得ない。言わば専門性は最低限の前提に過ぎないし、現場に行けるかどうかはその個人の問題で、その為には基本的に「楽しいことを楽しくやる」だけ、それでいいと思うよ。