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THINK ABOUT SOMETHING.

比喩は力なり

何か一つを極める時、論理で固めるのも重要だけど、言葉は本質の近似にはなり得ても本質そのものにはならないし、必ず綻ぶ。かと言って短絡的な観念主義に陥ると足掛かりが曖昧で、思考がまとまらないから、最低限の論理は要る訳だ。


しかし論理とは本来重たいものだ。ボクシングの試合中に「この角度のパンチにはこういう立ち回りが期待値的に最大」という計算は役に立たないし、かと言って観念だけでやって行くといつまで経っても深みに辿り着けないから、導きは要るし、また両方のバランス感覚も要る。


宮本茂の論理ってそこまで重厚ではないけど、あそこまで天才なのは観念とのバランスが優れてるからだろう。この二つの黄金比なんてものはないと思うけど、宮本茂は観念=剥き出しの本質をリアルタイムで作品に反映する才能があるから、論理=翻訳された本質はそんなに要らないのだと思う。


一部例外はあるが、標識が読めなくても周辺の状況から道路情報を瞬時に判断し、運転することはできる。標識は道路情報を訳したものだけど、それが読めない(「存在しない」ではない)ということは論理化作業が追い付いておらず、にも関わらずそこを安全に運転できるとすればそれは観念が優れてる証拠。


僕は昔「言葉の最終形態は抽象だ」と言ったけど、例えばある笑い話があってそれを他人に伝える時、多少話を盛らないと、現場に居なかった聞き手は現場に居た話し手と同等の笑いは起こさない。これは純粋写実ではなく過剰写実とでも言うべきもので、一種の比喩であり、抽象でもある。


これを論理と観念の話に繋げると、写実に走るということは近似に走る、即ち「超えられない壁を目指す(近似以上にはならない)」という行為であり、それが論理化だが、抽象に走るということは比喩に走る、即ち「壁を超えることを放棄し壁の内側で等価物を目指す」という行為であり、それが観念化だ。


ややこしいけど、現実的には最初から観念化することはできない。壁の手前で壁の向こうを再現する為には、壁をよじ登ってある程度「物自体」を見極めなければいけないからだ。従って壁を目指してから壁を捨てるという流れになるし、最初から壁を放棄してもどこが壁でどこがその奥なのかも分からない。


論理を目指して観念に子供帰りする、というプロセスがおそらく理想で、例えば宮本茂とかそんな感じだ。最初から最後まで子供を通すのは記号的で観念的ではないし、『論理を終わらせるもの』が『観念的ないしは比喩的な世界観』を形造る訳だ。そういうものをいくつ持てるかが作家の「力」だと僕は思う。