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THINK ABOUT SOMETHING.

音夢的相対性理論

原体験と言うと大袈裟になるけど、僕の思想を形造った一つの言葉に、ベック・ハンセンの「あらゆるものはバランスだ」というのがある。決して中庸を推奨する訳じゃないけど、ある一方向に振り切れるべきものというのは皆無で、折り合いこそが全てなのだ。


例えば服装。洒落てるに越したことはないが、それはある一線を越えて羨望を生み、その次の一線を越えて今度は嫌悪に陥る。例えば愛想。振りまくに越したことはないが、それはある一線を越えて好意を生み、その次の一線を越えて今度は嫌味に陥る。


この第一の一線未満と第二の一線以降を「振り切れ領域」と呼ぶとすれば、それはどちらもピアノで言う所の「捨てられた旋律」であり、事実上の無効領域である。思春期の頃はそれを金脈と錯覚しがちだけど、実際には金脈などではないし、金脈というのは本来洞察力による「点の逆算」でしか取得できない。


物事を極めるということは「点になる」ということだ。これは以前つぶやいた「頂点の均一化」にも通じるんだけど、巨視から微視への天昇りは次第に相対性を鈍らせ、絶対化せざるを得ない。これは俗にはスケールダウンなんだけど、洞察的にはスケールアップなのだ。


この絶対性(幻想の点)を逆算できるというか、取得できる人というのは超微視的な相対性を認識できるトッププレイヤーであり、例えばウメハラなんかがそうで、ダリとかピカソはそんなんじゃない。そしてこの「聖なる相対性(絶対を分かつもの)」をいくつ洞察できるかが万事における金脈に他ならない。


話を戻そう。この天昇りの過程においても、バランス感覚は要求される。何故なら振り切れた正しさなど存在せず、折り合いを付けたその先でまた折り合いを付けていく最果ての超バランスとでも言うべきものが、前述の絶対性だからだ。


三島はある意味このモデルを熟知していたと思う。一見振り切れた田舎者思想に見えるんだけど、それは話を混同しているだけで、即ち絶対性に向かう振り切れは構わないし、その過程中におけるバランス感覚はしっかりしていた。つまり、振り切れていなかった。


三島は硬派なイメージがあるけど、それはフォルムに対する尊重であって、フォルムを目指す過程においては軟派な思想もある程度使い分けていた。もし後者においても硬派を徹底していたら、一生かかってもフォルムに触れることはないし、バランス感覚から来る完璧な静止だけが聖なる相対性を認識し得る。


相対性が滅びた時に絶対性が生まれ、しかし絶対性は幻想ゆえに、僕等は相対性を絞ることでその夢を垣間見る以上のことはできない。そして絶対性を夢見た刹那の聖なる相対性――絶対を分かつもの――の覚りは王者の王者たる所以であり、一つの絶対の比喩――堕胎の王冠――なのだ。音夢相対性理論