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THINK ABOUT SOMETHING.

don’t think. feel!

世界は説明可能なものと説明不可能なものとで構成されている。例えばスクランブル交差点で人がぶつからない理由を完全に説明することなどできないし、そこには特定のルールがない代わりに暗黙の了解が存在している。


格闘ゲームなんかを見ているとよく思うんだけど、防戦としては説明可能性を大きく取り、攻戦としては説明不可能性を大きく取るのが一流プレイヤーで、これは相手の攻めとこちらの守り、あるいは相手の守りとこちらの攻めの合計で10になる。


例えば相手の攻めの6割を説明可能性に振り分けられるなら、防御6:攻撃4になるし、逆にこちらの攻めの8割を説明不可能性に振り分けられるなら、攻撃8:防御2になる。ちょっとややこしいけど、この場合こちらの攻撃は8で防御は6だから、合計すると相手よりも8ポイント優勢に立っている。


これは厳密に数値化することなどできないけど、勝敗よりもこちらの方が実際の実力を表している。相手の攻撃を説明可能なもの(定石)として軽くあしらい、自分の攻撃の際は相手にとっての説明不可能な領域(定石を超えた定石)へと追い込む。


この説明可能なもの=定石の解読は実際は凄くややこしい。波動拳を撃ったら飛んできたので昇龍拳をしましょう、といったバカみたいな話ではなく、残り時間やゲージ及びゲージ差といった諸々のファクターを踏まえた上で、この瞬間に到るまでの心理的文脈を読み取るという行為こそが、定石の解読になる。


そういう意味では定石を外そうとすることすらも、定石の解読の範疇になり得る。純粋確率に還元されるシーンもあるだろうけど、自分の選択が実は無意識に支配されているというシーンもかなりあって、そこを深読みするのが「文脈制覇」ということになり、攻めの場合は制覇されない立ち回りが必要になる。


一流プレイヤーの間に「置くだけの攻め」というのはあまりない。ほとんどの場合その攻めにはそのプレイヤーなりの「裏付け」がある。そしてその裏付けの裏を行くという行為は「裏の裏は表」みたいな幼稚な話ではなく、心理を制覇する、文脈を制覇するということに他ならない。


どんなプレイヤーでも一度ぐらいはファンタジスタになれる瞬間があるが、この制覇率が高いウメハラみたいなプレイヤーは、確率論的にそういう名シーンを数多く生み出す。即ち読み切っているからこそ上手を証明できる訳で、その読みの深度が深ければギャラリーも当然湧くだろう。


ここまでのつぶやきの通りだと「攻撃=説明不可能性」で、「防御=説明可能性」ということになるが、実際はそこまで理路整然としておらず、リアルタイム性のある競技ならではの「揺らぎ」が存在する。


説明可能な範疇に収まってるのに反応が追いつかなかったとか、逆に説明不可能なのに偶々取った選択がファジーに対応してくれたとか、説明可能性とその確定の間にも、説明不可能性とその確定の間にも、共に「ランダムな中間項(揺らぎ)」が存在する訳だ。


簡単に言えばそれは「不確定要素」であり、それが欠けてしまうと強者が理路整然と弱者を負かす試合になるだけで、ゲーム的にとてもつまらなくなるのは目に見えている。不確定要素があるからこそ時としてドラマが成り立ち、名勝負も生まれるのである。


そしてこの不確定要素を揺らぎとしてではなく、強者と弱者を対等化させる為の中間項として活用したのが、スマブラの逆説だ。厳密にはマリオカートとかそれ以前のボードゲームまで遡れると思うけど、それまで「理路を乱すもの」だったものが「理路をなくすもの」まで転回させられた訳だ。


もちろん本当の一流プレイヤーにかかれば結局弱者が負けるんだけど、ある一線までは、言い換えれば大衆レベルまでは誰もが平均的に楽しめるゲームデザインで、これをコペルニクスならぬ桜井政博的転回と名付けてもいいと思う。


例えばスト4は一流プレイヤーと対戦する気には全くならないけど、スマブラはゲーム側で補正をかけてくれるから、誰とでも気兼ねなく楽しめるし、そういう競技性を犠牲にしたゲームデザインが万人受けするというのは、意外にも盲点だったと思う。


ボードゲームで補正がかかるのは「早期に勝敗が決する」のを避ける目的があるから、必然だけど、格闘ゲームはボードゲームほど長期戦ではないから、同じような補正をかけることに必然性がない。むしろ「競技性を損なう」という側面が際立つから、短期決戦で採用したのはかなりの冒険だったと思う。


まあスマブラを格闘ゲームにカテゴライズすること自体問題がありそうだけど、任天堂の対戦ゲームには総じて似通った思想が流れている気はする。即ち「競技」の字の如く「技術を競わせる」のではなくて、むしろ技術を放棄させた「don't think. feel!」の領域を体現してると思う。


「feel!」と断じる勇気が、ブルース・リーにも任天堂にもある。即ちクリエイター側はロジカルに設計し、プレイヤー側はイロジカルに楽しめる最高の箱庭が、そこにはある。これはもう任天堂の持つブランドだと言っていいし、サードがそこを目指しても一生辿り着けない気はするな。