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THINK ABOUT SOMETHING.

神のハッキング

僕はキリスト教についてそんなに詳しくないし、知ったかかもしれないけど、「汝の隣人を愛せ」という言葉はよく聞くし、キリスト教の一つの最大原理なのかなと思う。


でもフロイト的に言えば戦争はなくならないし、アプリオリな本質というのは絶対に変えられないと僕は思ってるけど、それを「変える」のではなく「整える」ような作用を宗教は担っていて、本質の後に「しかし、目的論の名においてかくあるべし」と続くのが宗教的言語だ。


即ちアプリオリな自然状態としての世界――無条件世界――というのが先ずあって、そこに条件を連ねることで世界をあるべき姿に、即ち歴史の目的論に還元していく。それを宗教が全部担ってるとは思わないけど、影響の最右翼であることは間違いない。


だから無条件世界だと人は永遠に争ってるし、以前にもつぶやいたように霊的な連鎖がなく、肉的なそれしかない。そこに霊的な要素、即ち言霊を据えて神なるオリンピックを開催するのが、宗教の一つの競技性であり、「汝の隣人を愛せ」は世界最高峰の宗教的フォーマットなのかなという気がする。


全ての宗教的言語は目的論を加速させるものであるべきだ。神なるオリンピックへの短絡的な懐疑は歴史的終末――相対性のカタストロフ――からの退行にしかならないし、それはアプリオリな自然状態――絶対性のカタストロフ――を推し進めるルソー的行為に他ならない。


絶対性というのは要するに、神的なもので、相対性というのは要するに、人的なものだ。自然状態というのはその神的なものが完全に機能していない世界を指し、歴史的終末というのは人的なものが究極まで昇華された世界を指す訳で、それは「人の死」ではなく「神のハッキング」を意味するのだと思う。


「神は死んだ」という言葉には、目的論そのものの人による白紙化という解釈もあり得る訳で、しかしその為にはある種の歴史的転回が必要で、アインシュタインのような通説の再定義が不可欠になる。それを短絡的にスキップしてしまったのがルソーで、正面から向かい合ったのがニーチェなのかもしれない。


そういう意味ではルソーは反宗教的だし、実はニーチェこそ純粋に宗教的なのだと言えるだろう。「不変なる本質(内なる無条件)」というアプリオリな条件を踏まえた上で、人の在り方を究極まで昇華する。それを宗教と呼ぶならば、その言語は必ず詩的であるべきで、ゆえにニーチェは王道なのだと言える。


精神という大海において、エロスを求めることに前提条件などなく、ゆえにエロス=内なる無条件と呼べるけど、これは世界を構成する上でのアプリオリな条件である。即ち「何の為に欲するのか」というのは無意味な懐疑であり、「何の為でもなく欲する」というのが真理な訳だ。


この「内なる無条件」という言葉の定義を、最近つぶやいた必然の定義に紐付けることはできるが、完璧ではない。例えば必然の最高峰である神を求めることに前提条件がないかと言われれば、個人的には疑問で、世界が初めから楽園であれば神を孕むこともなかったと思うし、そこには「欠乏の精神」がある。


即ち必然だが、無条件ではない。遡行の余地があって、その最後にはエロスが来る。要するに、エロスから派生する全ての静的なものが「必然(リビドー)」であり、あらゆる必然の原点にはそれがある。しかしエロスと必然が順接の関係だけだとは思わないし、順接の派生もあれば逆接の派生もあるだろう。


「ゆえに」という原理が肉的な連鎖を意味するならば、「しかし」という原理は霊的な連鎖を意味する。そして「言葉」ができるまでは「ゆえに」だけで世界は構成されていき、それに取って代わる「しかし」という原理主義は、集合的リビドー(神)という概念の設置によって初めて成立するもの。


このエロス(自然状態)と神(歴史的終末)を繋ぐパイプラインが宗教で、そこに到るまでの「しかし」の正当性を立てるのが理性の理論に他ならず、そしてそこに関与する行為が僕が言う所の「火継ぎ(終末史観)」であり、その参加者を「芸術的VIP」と呼ぶことができる。


世界を構成する上でのアプリオリな条件は只一つ、「エロス」だ。そしてエロスから神へと「しかし」で収束させるタイプの必然――逆接のリビドー――は歴史的に構成されていき、エロスから全方位へと「ゆえに」で発散するタイプの必然――順接のリビドー――は神へのベクトルを除いて歴史から葬られる。


「ゆえに」以降は言葉がなくとも実行可能だが、「しかし」以降は言葉がなければ実行不可能だ。従って歴史は言葉によって構成され、歴史的終末も言葉によって記述されるべきである訳だけど、「ゆえに」だけでは歴史が始まらないし、「しかし」だけでも歴史が収束しない訳だ。


だから僕達はエロスの順接として、または逆接的帰結として「神」を造った。人類普遍のリビドーとして、言葉や歴史と不可分な哲学的理念として、それを孕んだ。順接だけでは曖昧だし、逆接からのオルガスムスとして順接の王手を打つべきで、神はそのプロセスが最も深遠なものだと僕は思います。