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THINK ABOUT SOMETHING.

ポータルとしての芸術理論

芸術理論というのはあらゆる終末への手掛かりとなるものだ。即ち「アーキタイプかくあり」が理想の境地として、そこに到る諸神話の普遍性を描く理論であって、アーキタイプそのものを描画するのは「理論の領分」ではなく、「行為の領分」だ。


僕の芸術理論というのも、当然アーキタイプを直接指し示すものではない。最低でも一人ひとつのアーキタイプが存在する、という前提を先ず置いて、それを描画する為に不可欠な心構えや出力までの段取りを描いたものに過ぎない。


言わば「コツ」のようなものを多角的に定義し、ありとあらゆる深淵――言い換えれば読む者全ての深淵――へのポータルを構成するのが芸術理論の役目だと思う。即ち説明可能性=普遍性を可能な限り描画し、万人万別の説明不可能性=深淵への途を浮き上がらせる訳だ。


『説明不可能性の究極』というのは『説明可能な唯一者(我)への説明責任を果たした状態』を意味し、そのプロセスの全てが『自我の自由(霊的連鎖)の物語』ということになる。言わば誰にも説明不可能で、しかし我が我だけに説明可能なもの、そういうものを炙り出す所からアーキタイプも姿を現す。


そういうオリンピック的なものを、僕は万人が持っていると信じているし、同時にそれが万別のアーキタイプとして、歴史に刻まれるとも信じている。そしてその聖火は絶対的固有の領域――普遍性の皆既蝕以降――において焚かれ、我を我たらしめるもの――内的唯一者――がそこには君臨している訳だ。


それは端的に言えば「視差の究極」として存在するもので、例えば視力や色覚が完全に一致することはあり得ないし、またそこから派生する情感も一致し得ない。要するに「世界に同じ現象は二度起こらない」ということを前提とし、万人万別の個人史の芯となる部分を、終末に繋げるべしということなのだ。


個人史の芯となる部分、言い換えれば最も必然的な部分にひた向きであること。それこそが唯一的な執着を生み、ある一つの山の最高峰に達する『原理』となる。これが僕が考える芸術行為の普遍的メカニズムであり、火継ぎを目指す際の芸術的ポータルとして機能すれば嬉しいな。