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THINK ABOUT SOMETHING.

ソリッドに、シンプルに

僕は昔宣伝会議賞に何通か応募したことがある。一課題に集中して応募したのではなく、一課題につき一応募を複数課題、というやり方だった。

 

結果から言えば落ちたんだけど、何故そういうやり方をしたかと言えば、『本格的な人間は百単位、千単位で応募する』というのをネットで見かけ、真偽はともかく、バカバカしいと思ったからだ。自分が多作型ではないというコンプレックスとは無関係に、そう思ったのだ。

  

仮にその千単位の応募がすべて全く異質の、重複しないようなコピーだった場合、それは肯定できると思う。でも現実的に考えて、課題数で分散されるとは言え数千通の応募のその全てがすべて独創的だとは思えないし、それは下手な鉄砲数撃ちゃ当たる方式でしかないと思うのだ。

  

それはどういうことかと言うと、自分のコピーに客観的になれないということだ。断捨離じゃないけど、残すべきものと捨てるべきものの選択ができなくて、それを審査員に委ねるという横暴さがそこにはある。確かに細部を変えただけで文章は激変するけど、その激変の見極めを審査員に委ねてどうするのだ。

  

ちょっと言い方を変えたとか、言葉尻をいじったとか、その行為自体は全然否定しないけど、その中の本命を自分で見極められず、とりあえず保険で全部送っとこうというのはやっぱりバカバカしい。大きく違うものをまとめて送る、ならいいけど、細部の変化をまとめて送る、はやっぱりというか、絶対違う。

  

僕は想像の時点で数百数千作るのは全然否定しない。微視的な変化であれ巨視的な変化であれ、あらゆるベクトルのコピーを網羅することはインスピレーションに敏感になることに繋がるし、コピー名鑑だっけ、あれを見ながら作るのも全然アリだと思う。その辺は結構ファジーな考え方だ。

 

でも出力の時点で全く絞れない人間は、想像の時点で余計なものを拾いまくってると思う。もちろん強者が捨てるものを『強者』が拾って上回る、ということは起こり得るけど、強者が捨てるものを『弱者』が拾って上回る、ということは先ず起こらない。無作為に拾っているだけで審美眼がないからだ。

  

この場合の弱者というのはランダムウォーカーというか、時系列的な――ある何かを見据えた一貫的な――創作のできない早漏の花火に過ぎない。もちろんそういうソリッドなものがなくてもコピーの世界は成り立つとは思うけど、例えば糸井重里がリキッドかと言うと、案外そうでもないんだぜ。

  

……ということを踏まえた上で、今ほぼ日手帳コピー大賞のコピーを考えてます。短い言葉の世界は好きだから、最終的な可否はともかく、考えてるだけでも時間的に充実するし、残り少ない何日かで精一杯考えよう。そして、送るのは一桁にしよう。