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THINK ABOUT SOMETHING.

ロジックとバーニング

シューティングゲームのトッププレイヤーは、自分のプレイを録画して無意識的な悪癖をなくしていくと聞いたことがある。要するにこれは理想論だけど、少なくともシューティングゲームの中だけでは「我に無意識なし!」と言い切るという訳だ。

 

折り返し地点はあるだろうけど、歳を重ねるごとに無意識の比率は落ちていくものだ。胎児が無意識の究極とすれば、今の自分は自意識の最前線であり、次第に自分の中の無意識を殺していく。リプレイ性のある日々で無意識的な悪癖をなくし、万人固有のゲーム性を支配し、ハイスコアを狙うという訳だ。

 

リプレイ性のある日々、と言ってもそれは毎日の繰り返しという意味ではなく、断続的に繰り返される週単位、月単位、年単位での場慣れを掴み取る為の(万人固有の)ゲームプレイという意味だ。その為にはイベントの発生が必須だし、それは例えば僕が昔やっていたヒッキーにはできないことだと思う。

 

このイベントとイベントの間隔があまりにも広がり過ぎると人は勘を失ってしまう。だからリプレイ性は高い方が有利だし、勘を繋ぎ止める程度の頻度で上に昇っていかなければならない。その究極にあるのが「すべての我には故がある!」という宣言で、例えば怒首領蜂の長田仙人なんかがその領域だ。

 

でも逆の視点もあって、意識的に物事を征服するというのは確かに一つの理想なんだけど、無意識でそれをこなした方が処理の負荷は遥かに低い。でもこれも面白いもので、無意識というのは意識のハードウェア的な焼き付きだから、同じことを繰り返せばそれも必然的に発生するだろう。

 

アートでもこの現象は起こり得る。優れたアートと意識的に接触し、再三に渡って嗜んでいる内にロジカルシンキングをスキップし、無意識的に再構築ができるようになる。人間は意識が触れたものの範囲での再構築しかできないし、しかしその為にはロジックにするかバーニングさせるかしなければならない。

 

しかしスピードの求められない分野ではロジックで対応できるが、リアルタイムで処理しようと思えばバーニングでしかあり得ない。将棋とボクシングの違いみたいなものだ。僕はこのどちらにも振り切れない中途半端なポジションだけど、時間をかけてロジックを目指そうとは思っているのだ。

 

だからこういうことなんだと思う。長田仙人はバーニングでプレイしているし、しかしその詳細についての洞察はとてもクール(ロジカル)だ。無意識だけで勘を掴もうとしても限界があるし、ロジックそれ自体ではリアルタイム性がない。そう考えるとロジックを無意識にバーンさせることこそが大切なのだ。

 

だから厳密には「我に無意識なし!」ではなく、「我に恣意なし!」の方が正確だ。少なくともゲームの中だけでは合理で満たし、完璧の近似=満杯の合理を目指していく訳だ。スポーツの世界ではそこにバーニングが必須だが、日常生活程度ならロジック=意識的な征服でもなんとかなる。

 

ちょっと違うな。厳密にはバーニングにも限界があって、ロジックをメモリに蓄えながらそこを参照する、という方が現実に近い。要するに無意識も自意識も両方使うし、しかし無意識の比率を上げる方が理に適っているという訳だ。参照するまでもなく体が動く、が理想なのだ。

 

幸い僕にはロジックを積む力があるし、それをメモリに蓄えて参照を繰り返すことでハードウェア的な焼き付きを狙うしかない。もちろんロジックがなくても直接バーニングできる人は居るけど、僕はそのタイプじゃないし、最終的にはロジックを経由した方がバーンも強烈なものになると僕は思います。

 

『恣意なるもの』が無意識の大半を占める中、『合理なるもの』でそれを殺していく。即ち合理的無意識の比率を上げていき、自我を合理で満杯にしていく(すべての我には故がある!)。そして無意識+自意識=自我が合理的であることは前提に、その無意識に重心を置くのが理想的な『子供帰り』なのだ。

 

もちろん殺菌と一緒で、恣意を合理で埋め尽くす究極のクリーンはあり得ない。例えば歩道沿いから横1cm未満を自転車で走り続ける、というのは理論的には実現可能に思えるけど、人間には合理だけではどうにもならない『揺らぎ』があるし、また逆説的にそれこそが最もエネルギッシュなのだ。

 

この根っこの部分をハードウェア的に書き換えることこそがバーニングであり、『自意識と世界の聖なる関係』は『アイデンティティーの身籠り』を為し得る為に存在する。即ち合理の満杯化であり、読書は自意識レベルでそれを満たす最速のライフハックということになる。

 

しかし無意識下のルートハックには長年の歳月と場数が必要で、そうやって為し得た『虚無擦れ擦れの揺らぎ』と『満杯の合理』が世界最高水準で矛盾しない状態こそオリンピックに相応しく、ゲームにはオリンピックはないけど、例えば前述の長田仙人が正しくそれなのだ。

 

言葉遣いで言えば糸井重里もその領域で、理想的な子供帰りを体現してると思う。表現が悪いけど、人の揺らぎはアプリオリに無限であり、そのエネルギーを大人買いしているのが一流のアーティスト。彼等は最大の揺らぎを明らかにする合理と、それと寄り添う合理の両方を持っているのである。

 

即ち最後の揺らぎが最高の揺らぎであり、一回的な最大の揺らぎであり、最もエネルギッシュな揺らぎなのだ。揺らぎを押し殺していくことで至高の揺らぎを発見するという逆説がアイデンティファイを促し、それの見え方に再現性はなくとも、パラダイムスルーすればアプリオリなものに違いないのだ。