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THINK ABOUT SOMETHING.

哲学に後ろはない

無意識が『(自分自身すらも省いて)自ずと意識するもの』であるならば、無意識の正体というのは『夢の続き』ないしは『覚醒夢』であり、自分の中に流れるアプリオリ無秩序のようなものだ。リラックスすればするほど無秩序は増幅し、夢がそのピークであるという点も、この仮説を後押ししている。

 

逆に何かについて集中すればするほど、無秩序はその対象に収束する。即ち自宅などでリラックスしている時以外は、アーティストなどの例外を除き原則として無秩序は増幅しない訳だ。仕事の時に半分夢心地は通用しないし、無意識それ自体はアトランダムだが、その上積みの部分で線形化することはできる。

 

無意識の自然状態は『恣意』であり、それは夢のように整合性がないアンフォルメルであり、翻って無意識の線形状態は『合理』であり、それは傾倒するものを洗練させる明晰夢である。この後者こそが無意識=夢の随意化であり、その線形の究極のところでは最早自意識しかなく、それが最高峰の自由なのだ。

 

自由意志それ自体は無意識のことを指すと思うが、最高峰のそれは流転ではなく掌握でなければならない。だから明晰夢という表現を使った訳だけど、随意化された夢は任意の対象を一方向的に洗練させる作用を持つ。例えば理想化であり、あるいは抽象化であり、ありとあらゆる収束作用がそれである。

 

ゼロ付近が天地創造の根源――言い換えれば無限の保有者――だとすれば、無限付近は終末論的な真理――言い換えれば誤謬のゼロ化――を指し示す。宗教的に言えば人間の正体が暴かれるまでの裸体化であり、即ちゼロが『判定不能な宙ぶらりん』とすれば、無限とは『認識不能な真理の領域』なのだ。

 

明晰夢の線形は無限に向かって伸びていくが、その近似に到るほど必ずや誤謬がゼロ化するという訳でもない。その一方向性が対象の本質と完全一致することはあり得ないし、それは世界の分解能が無限であることからも明らかだ。無限付近に真理はあるが、それは同時に誤謬も過激化される領域なのである。

 

即ち無限×無限には誤謬の悪魔が五万と居て、その中の唯一の無限が神ということになる。恣意の世界では神に触れられないが、しかし悪魔も鳴りを潜めるもので、翻って合理の世界では神に触れ得るが、同時に過激な悪魔達も姿を現す。そして線形化する自らが、その悪魔か神かに化けることになるのだ。

 

こういう世界構造である以上、ほとんどの人間が悪魔的なものを抱えるし、しかし神的なものばかりで構成されたからと言って、彼が絶望していないとは限らない。むしろ悪魔的な希望もあるだろうし、そちらの方が人間の弱さにマッチするんじゃないかとさえ思う。甘くささやくのはいつも悪魔の方なのだ。

 

無意識に一本筋を通し、無限なる彼岸へ線形化することが哲学的フォーカスであり、自由意志の最高峰だが、それは世界が見事に解像されている状態であり、その究極を体系化していくことが人間のブランドに繋がっていく。そう、神も悪魔も数学的な高みに居る。そこで戯れることがブランドをハイにする。

 

でもここまで書いといて思ったが、無限遠が無限個あるというのは間違いかもしれない。大きな誤謬もまた誤謬のゼロ化の一環であり、その先の深遠に神があるのならば、無限遠はただ一つしかない。その収束過程で揺らぎはあっても、大筋では一方向的であり、悪魔達の鬼門を超えたところに神がある訳だ。

 

そういう意味では悪魔達がひた隠しにするところ、色濃く影響するところに神が存在することになる。僅かな解釈的ズレがその他万象の定義をもひっくり返すような、正否ギリギリのところに神は居るという訳だ。要するに遠目からファジーな態度を取るのではなく、前線で明確な立場を取るところに神は宿る。

 

そうやって考えていくと哲学に後ろはない。昔の立場に立ち戻ることはあっても、それは新しい視点を含めたより強固で前進した立場だ。神は無限の彼方に存在するゆえ決して触れられないが、そこに近付くことはできるし、だから誤謬の悪魔達がカリスマを誇るようなところを目印に、GOGOGO!