BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

確率を征する闘い

人は全確率に対し普遍的に対応できるものの中で、最高のキャラクターを選ぼうとする。例えばかなり強烈な武闘派タイプでも、マイク・タイソンを目の当たりにすれば小さく縮こまる訳で、そういう末端の確率も含めて普遍的に対応できるものの中で、最高のキャラクターになることを目指す。

 

もちろん末端の確率を切り捨てることもできるが、そういう人も時間と共に角が取れて丸くなっていく。何故なら末端の確率が一切来ない訳がないからで、レアな確率も百個集まれば十分あり得る確率になるし、これは大病一個の可能性は低くても、全部に引っかからずに死ねる人がほとんど居ないのと同じだ。

 

末端という表現が正しかったかどうかは不明だが、対となる中枢の確率というのは、彼がほぼ日常的に晒される確率の世界のことで、例えば学校や職場が代表的なそれである。もちろん如何に小規模でもそこで起こり得る事象は無限だが、しかし現実的には一定の範囲に収束せざるを得ない。

 

そこには猛威を振るおうとする自己肥大の心理――揺らぎを最大限に大きくしようとする運動――と、平和を願おうとする自己安定の心理――揺らぎを最小限に抑えようとする運動――とが共存していて、例えばアップルは『i』から始まる諸々の発明で肥大したが、i以降に勝算がなければそれを展開しない。

 

あまりデジカメに詳しくないけど、最近のソニーのデジカメへの注力はアップルのiに近いものがあるのではないか。アップルの例で言えばマイクロソフトの牙城を崩したし、デジカメも今やキャノンが特別な存在という訳ではなくなった。彼等はつまり可もなく不可もないもの作りに終わっていたという訳だ。

 

もちろん『なるべくしてなった形』という考えもあるだろう。あらゆる栄光は一日にして成らずだし、彼等の自己安定は紆余曲折を経て最後に行き着いた姿という発想だ。そしてその大海=テリトリーで猛威を振るおうとする訳だけど、時代の変化と共に大海は井戸にもなるし、時の人もカエルになり果てる。

 

それは今の任天堂に顕著なことで、かつてコンシューマの大海を掌握していたものも、今や井戸を掴まされたカエルという訳だ。そう考えるとほとんどの人間に当てはまる『丸くなる』という行為は、あまり宜しいことではないのかもしれないし、僕達はむしろ壇蜜マイク・タイソンを目指さねばならない。

 

壇蜜の偉いところって、同性から嫌われることを徹底的に無視している点にあるし、その結果あれだけのエロスというかフェロモンというか、そういうものを男性に感じさせる訳だ。中々あそこまで居直れる女性は居ないし、タイソンにしたって同性からの羨望を無言で殺しているところがあるだろう。

 

要するにこの二人は対極に居るように見えてもの凄く『芯』があり、言い換えれば『諸王(全確率)の王』なのだ。その鋭さは中々丸みを帯びることがないし、僕はそこにOne Sony的なカリスマを感じるけど、各確率に対する王権を無欠にしていくというスタンスこそ『若さの秘訣』なのかもしれない。

 

この場合のスタンス、即ち戦争状態は安定状態よりも遥かに優れた作品を生みやすい。例えば家族から毒殺される可能性のある貴族は四六時中気を張っていた訳で、その気は芸術にも反映されると思うのだ。今のぐうたら時代から大芸術が生まれる可能性も否定しないが、そういう時代の方が熱かった筈なのだ。

 

気を張って気を張って線形化されたその究極に何ものかが宿るのならば、それは射精のメカニズムと似ているし、どんなに遅漏でもその高みでは『快楽にしかアクセスできない過敏状態』になる。人が生き生きするってそういうことだと思うし、万象が快楽に変わっていく方向がその人の『社会的性癖』なのだ。

 

だからやはり、戦争状態というスタンスを大人買いすること。決してそこから戦争を起こさずに、戦争状態それ自体と戯れること。即ち戦争を常日頃から堕胎し続け、その快楽をアートとすること。かくして精神的射精を癖付けたらば、いつの間にか世界は楽園に変わっているという構造を僕は信じるよ。