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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

words are very unnecessary

ゼルダが偶然の産物か必然の結晶かということについて、たまに考えるんだけど、もちろん両面あるのだとしても、どちらかと言うと後者寄りのような気がしてきた。

 

クリティカルがあんまりないという側面はあるけど、任天堂ゲームのハズレ率の低さは割と凄い。それは任天堂という会社自体が本質を見抜く目に富んでいて、結果的に打率に繋がってるからだと思うのだ。そしてその本質を見抜く上積みの果てに、ゼルダという金字塔が生まれたのではないかと思ったのだ。

 

本質を見抜くというのは『曇っている結果を見透かす』ということだ。そしてあらゆる芸術は、事あるごとに生じる偶然性を一つ一つ組織化していかないといけないが、この見透かしが試行錯誤の範囲外まで及ぶ場合に『見透かせないものとの壁』が生じ、その上積みの果てにゼルダが形成されたのではないか。

 

トライアンドエラーを無限に繰り返せばいずれはその見透かしの及ぶ高みを超えるだろうが、現実的にはゲーム制作には試行錯誤の時間制限があるし、見透かしそれ自体で答にアクセスする方がスマートだ。即ち現実的試行錯誤の範囲外の美をどんどん見透かしていき、その総合がゼルダになったのではないか。

 

そこで僕が感じることというのは、僕のスタイル的な敗北なのだ。僕は割と任天堂的スタイルを見下しているところが昔からあって、それは自分の言論と結び付き、あくまで個人的にだが一定の成果を上げていた。例えそれが脳内麻薬による単なる酔いだとしても、勝った気になっていたのだ。

 

しかし勝利って勢いだけの騙りであることが多々あるが、本質的勝利というのはもっと落ち着いた状態での覚りなのではないか。例えばダリの勝利が仮初で、ゴッホの勝利が本物なのだとすれば、前者の勝利はその瞬間その刹那に生じ、後者の勝利はそれらの敗北を経た後の終末に覚られるのではないか。

 

刹那的な輝きではなく、最後まで尚も残り続けた輝き、冷静になって目が覚めた状態にまで及ぶ永遠性、そういうものが美だとすれば、美とは本来土壇場で決まるものであり、無ゆえに無限に輝く無音なのだ。それを派手に鳴らそうとしたもの勝ちの競争ではなく、むしろゴッホ的な『静かなるもの』なのだ。

 

ダリはいつの時代に生まれても評価は高かったと思うし、またそれが定まるのも早かった筈。翻ってゴッホの場合、彼が見透かしたものが見透かされるまで時間がかかった。ダリの如く派手に鳴らそうとすればするほど逆説的に美から遠ざかるのに対し、彼は美それ自体と無音で邂逅したのではないか。

 

シモーヌ・ヴェイユ風に言えば、もし、一が美であるならば、無限大は、悪魔である。一が静的な無限の最たる近似だとすれば、無限大はそこから無限に遠ざかっていくフィクションであり、そこにはそこの美――美の対照としての美――が宿るが、本来的に目指すべきは明らかに前者なのだ。

 

僕が考える線形化の定義――覚束無いものを究極までテクニカルにしていくこと――は本来この前者に当てはめられ、即ち黙して語らないものほど実態的には熱く、岡本太郎じゃないが『静かなる爆発』を起こすのである。派手に鳴らそうと思わなくなる境地がそのゴールであり、『静かなる彼岸』なのだ。

 

何が言いたいかというと、結局、最後に笑ったやつが本物であり、宗教は知らないが、少なくとも芸術においては最後の審判こそが正義なのだ。そして最後の審判で胸を張れるゲームってゼルダぐらいしか思い浮かばないし、要するにゼルダという存在その一つだけで、任天堂の幼稚さの全ては肯定されるのだ。

 

「雨が降ったら傘をさすんです」という言葉に糸井重里が衝撃を覚えたというのを読み、僕はあんまり理解できなかったのだけど、そこから一つだけ直観したことがある。本物は今決まるのではなく、突き詰めに突き詰めた最後のところで決まるということで、彼の衝撃はそういう類のものだったのではないか。

 

そう思った時に侮っていた任天堂ゼルダが大きくのしかかってきて、今日のようなことを考えたのだ。僕には見透かせずに糸井重里には見透かせた本質、トライアンドエラーの領域外の本質がそこにはあって、そういうものを積み重ねた果てに東京糸井重里事務所があるのだと考えることができるだろう。

 

この糸井重里宮本茂と読み替えた時、そこにゼルダが完成するんじゃないのかということなのだ。自分はどうやら派手さというか虚飾というか、そういう美に走っていた傾向があって、灯台もと暗し的な本当の本質を見過ごしてきた気がするし、今一度思想的な再考が必要だなと思ったのであーる。