読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

シリーズとスピード

新生FF14のオープニングムービーを観た。そこで思ったのが、独自の世界観を築いてるシリーズは要素をその世界から引っ張ってこれるということ。


例えば「このシーンでバハムートを」「このシーンでベヒーモスを」出すと決めるとして、そのバハムートもベヒーモスもそもそも欠けてる場合、この括弧の後半は共に空欄になる。もちろんイメージは曖昧にあるだろうけど、スタッフそれぞれのイメージの誤差が中々まとまらない筈。


その点FFは制作陣一同が軽々とイメージを共有できるし、スタッフA「なんかこう……体全体に複数の生き物が居るクリーチャーを……」スタッフB「そうそう、それでいて物理と魔法に役割を分けて……」スタッフC「それキマイラやんけ」みたいな面倒なやりとりはしなくて済む。


これはイメージがまとまったマシな例だけど、それは元々誤差がなかったからに過ぎない。要するに、C以外のAとBに対置するキーワードがなかったに過ぎない。現実はもっとややこしい筈で、AもBもCも違うイメージを持っていて、その上で最後は一つに統合しなきゃいけない。


そこを強力な共通概念(キーワード)でスキップできる創作は、基本的に強い。「このシーンは……えーと」という感じで毎回止まらないで済むから、制作にイメージが追われるのではなく、イメージに制作が追われる状態になる。


それを体系的なデータベース(シリーズから来る世界観)がない状態で真似しようと思ったら、正真正銘の実力者がリードするか、シェアードワールドのようなやり方しか方法はない。そしてシリーズの創始者はこの前者の実力者に値するし、それ以降のシリーズ関係者は後者の人間に値する訳だ。


純粋な意味でのシェアードワールドであろうが、会社内だけのシェアードワールドであろうが、そこから全体を固める創作は本質的なクリエイティビティーを形骸化する。創始者はどこまで行っても偉大だ。そういう意味ではイメージに制作が追われることが必ずしも良いこととは限らない。


シリーズ関係者がシェアードワールドを利用しなくても、シリーズ創始者と同等の新しい世界観を組めるのなら、松野氏じゃないけどフリーランスになってるだろう。だから創作のスピード感というものに、一度は疑問を持つぐらいがいいんじゃないのかな。