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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

覚醒度と具体度

そんな言葉があるかどうか知らないが、『覚醒度』と『具体度』というのはコインの裏表だとふと思った。


この覚醒度というのは微妙に違うけど『覇気』という言葉に近く、普通に生活してても半分寝てるかどうか分からないような人間と、明々白々と生気が感じられるような人間とが居る訳で、この前者から後者に向かって覚醒度は高くなる訳だ。


もう一つの具体度に関してはそのままの意味で、例えばある人を説明する時に「あの人のいい所は優しい所だ」とざっくり言う人と、その優しさを詳細に「怒りを生活設計から破棄したインポテンツに過ぎない」とロジカルに言う人が居て、当然後者の方が具体度は高くなる。


この二つの度数はかなりの確率で結び付いていて、寝ぼけた生き方をしている人間は物事を詳細に語れないし、逆に覇気のある生き方をしている人間は物事を詳細に突き詰められる。僕はこれは後者が先で前者は後付けだと思ってたけど、どうもそうじゃない気がしてきた。


要するに物事を詳細に突き詰めようとしないから寝ぼけてるのではなく、寝ぼけてるから物事を詳細に突き詰められないのだと見る方が、最終的境地では現実だと思う。そしてこの寝ぼけてるか起きてるかという傾向は、凄くアプリオリなものだと思うのだ。


僕は確実に寝ぼけてる側の人間なんだけど、平均的な人間の寝起きぐらいの覚醒度が、自分のピーク時(例えば仕事盛りの時間帯など)の覚醒度だったりする訳で、即ち半ば夢見心地ゆえに思考力・集中力・直観力・記憶力のどれを取ってもかなりの低水準なのだ。


夢の中では思考が曖昧だし、集中など不可能だし、直観は死んでるし、記憶は起きたらほぼ忘れている。逆に現に生きる人は思考が明快だし、集中も可能だし、直観は生きてるし、記憶はほとんど残っている。これが覚醒度というスライダーの両端で、前者は極端だけど僕は前者の端に近かったりする。


思考力はツイッターでは多少マシでも日常ではもの凄く曖昧だし、集中力は一まとまりのツイートを書く際10回ぐらい聞いてる曲を変更して散漫だし、直観力は半ば夢の中に居るから沈んでるし、記憶力も当然夢見心地なので頭に残ることが中々ない。この低過ぎる覚醒度が悲しいことに『自然体』なのだ。


この覚醒度を計る際に一番分かりやすいバロメータは、「多分何々」や「何々と思う」という表現を多用するかどうか。覚醒度の低い人間はこの「多分」や「思う」という不確定表現を多用する訳だけど、それは思考力・集中力・直観力・記憶力の低さに裏打ちされている。


思考力がなければ洞察のアーカイブ(持論)も同時になく、曖昧な答しか返せないし、集中力がなければとっさの切り返し、即ち直観力も働かなくなるし、記憶力がなければ知識から来る確実な答すらできなくなってしまう。曖昧に責任回避するしかない訳だ。


それが自然体の人間がいくら自我を明白化しようとしても、結局は自然体に回収されていく。即ち覚醒度が先で具体度は後付けで、具体度を上げていって覚醒度も上げていくというのは、所詮理想論。だから強者はどんどん強者になっていき、弱者は直接弱くはならなくても相対的に弱くなっていくのが世の常。


ここまで考えて気付いたのだが、上記四項目の最も根本となるのは、集中力のような気がするな。覚醒という言葉を言い換えただけかもしれないが、集中していれば思考もまとまるし、とっさの直観も働くし、記憶も取りこぼさないで済むし、結果的に覚醒し、具体度はどんどん上がっていく。


だから仮にライフハック的なテクニックがあるとすれば、メスを入れるべきは集中力。覚醒度=精神的視力、具体度=精神的視力の帰結とするならば、帰結の側にメスを入れるのは筋違い。この問題を克服できれば内面的にも外面的にも、人間性がどんどん具体的になっていくのは間違いない。


即ち具体的に語れるから精神的視力が高いのではなく、精神的視力が高いから具体的に語れる訳で、この帰結を逆転させることなく真摯に向き合えば、もしかしたら、今より少しぐらいは幸せになれるかもしれないな。