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THINK ABOUT SOMETHING.

夢の理論

例えばそんなにしんどくない仕事をしている時でも、「これはしんどいしんどい……」と自分に言い聞かせれば実際にしんどくなってくる。逆にかなりキツい仕事をしていても、常に気を張ってればしんどいとは思わなくなる。


何が言いたいかというと、精神はフォーカスしたものに収束する性質を持っていて、例えば全身の痛みに注目すれば神経痛に敏感になるし、普段なら気付かないあちこちの痛みを拾うようになる。もう少し分かりやすく言えば、仕事に没頭している時は雑念など混じらないことの逆がこれに当たる。


このフォーカスの有無によって生じる感覚の差異・普段との異化作用は創作にも当てはめられる。月並みな言い方だけど、日常の全てにアイディアを求め始めると、それまで拾えなかった様々なものを拾えるようになる。例え同じ人間、同じ日常でも、得られるものは全く変わってくる訳だ。


また感覚の精度が確実である必要はあるけど、『理想』そのものをフォーカスすることもできる。例えば「これは傑作だ傑作だ……」と自分に言い聞かせれば、実際にそれたる所以に収束せざるを得ず、仮に全然大したことのない作品でも、その中での傑作たる所以を例え微々たるレベルであれ拾うようになる。


それは最初の段階では究極まで神経過敏な状態だけど、傑作たる所以が次第に大きくなってきて、神経を張り巡らさなくてもフォーカスしなくても傑作たる所以が自ずと可視化される時、痛みを全く意識しなくても激痛が走るような病理学的状態になる。


フォーカスしなければ拾えなかったものがフォーカス不要になるということは、意識しなくてもそれが自然体で出せているということであり、理想は最早眼下に収まっている。この境地こそが『dreams come true』であり、夢は神経過敏に始まって自然体に終わる訳だ。


何歳になっても夢を見続ける人というのは、感覚の精度がズレているか、自然体に始まり自然体に終わろうという、天然の天才を信じて止まない人を意味する。しかし現実はそうではなく、神経過敏になって初めて拾える夢の種子を、大切に育まなければいけない訳だ。


だから原則として、最初から自然体を信じてはいけないし、何が夢の種子かを見誤ってもいけない。それを見極め育む下積みを努力と呼ぶのなら、そういう努力はいくらでもするべきだし、最初から最後までを事前に俯瞰できる天然の芸術なんて、僕は一切信用しないのである。


僕は安易にdreams come trueを信用している訳じゃないけど、精神がフォーカスしたものに近付いていく作用は信じているし、それは理想(夢)への伸び代を示すものだ。フォーカスエラーを起こしていてもそのエラーしたものに近付いていくという意味で、この作用は普遍的なのだ。


エラー訂正するプロセスも含めてフォーカシングと呼ぶのなら、夢を信じることは決して無駄じゃない。そしてこのフォーカシングも最終的には自分自身に向けられた一つのパースペクティブであり、即ち自分以外の全ては自分自身についてのヒントであり、夢はそれを可視化する素敵な『魔法』なのだ。