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THINK ABOUT SOMETHING.

あるがままであれ

自由を『誰の為でもない自己目的を果たせる力』と定義した場合、それは過去に向かって空想的に巨大化し、未来に向かって現実的に巨大化する。これは人間の成長が上積み式という自分の考えに繋がるし、次第に実相が把握できる訳だ。


小さい頃は宇宙飛行士を夢見ても、空想の振り幅があまりにも巨大で、『かくかくしかじかで宇宙飛行士になる』というルートを全く想定できていない。言わば無制約に『何をも想像する』訳だけど、それが歳を取るに連れて空想が収束され、実現へのプロセスが可視的に巨大化する訳だ。


岩田聡のオリジナルの発言ではないだろうけど、氏は『制約は創造の母』と言っている。僕は『迷う』と『悩む』は別の行為だと思ってるけど、迷うが無制約な思考だとすれば、悩むは『迷わない方向に向かう』という制約的な思考で、これは答に対してアトランダムに動くかシーケンシャルに動くかの違いだ。


あり得ない話だけど、確率論的にはアトランダムな動きが偶然答をかすめることは、一応ある。例えばキーボードを出鱈目に半日打ち続けて、それが芥川賞を取れる内容になるということは、何億日同じことを繰り返さないといけないかはともかく、可能性としては一応存在する。


でもやはりシーケンシャル(順次的)に動いた方が、確率論的には遥かに効率的だ。これは迷う(無制限)に対して答への途上的制約を与えた状態だが、何がシーケンスであるかは未来に向かって可視的(=現実的)に巨大化するので、今は捉えられないこともあれば、明日捉えられるものもあるだろう。


現在の自分の諸々の能力がその答に対し本当に途上と言えるのか、あるいは全く話にならないレベルなのか、それは設定した自己目的によって変わってくるし、いつの間にか道が付いていたような道を行くのが、僕の創作の理想。そしてその為にはとことん遊ぶべしというのが、僕の思想。


この場合の全く話にならないレベルというのは、発想が幼稚にしかならず、何を想像しても現実性が伴わない状態で、厳密には少し違うけど、幼少期の『答に収束されない空想=迷い』と内容的に大差なく、想像力だけが巨大な状態。僕で言えば政治とか経済がこれに当たり、妥当に悩むことができない訳だ。


話は変わるけど、ロードバイクのMADONEの動画を観ていて、目的を詳細に設定していけばその答は一択的になっていくなと思った。例えば『足より速い人力の移動手段』だとあらゆる自転車が引っ掛かるが、『その中の最速』まで目的を詳細化すると、一気に選択肢は狭くなる訳だ。


これは住所と同じで、詳細化していけばいくほど対応する解は一択的になっていく訳だけど、その一択を巡って無数の選択ができる状態を僕は『自由』と呼ぶのだと信じる。ややこしいけど、無数の選択を巡って無数の選択ができる状態は、只のアマチュアなのだ。


但し自転車の世界の一択は例えばTREKやGIANTはかなりのレベルで認識が共通している筈で、その土台が同根である以上本当に無数の選択を張れるかというと疑問が残るけど、アートの世界だと共通認識自体が抽象的だから、いくらでも選択を張れるという違いはある。


この違いはどこから来るかというと、それは多分、数学と美学の違いからだ。ロードバイクの世界は数学的指標があるけど、アートの世界にはそんなものはない。そして数学はどう動こうと法則に帰結していくから、大胆なことが全く起こらない。だから一択的になっていく訳だ。


アートの世界でも、目的の詳細化と対応する解の一択化という現象はある程度まで起こる。しかし評価軸が数学的ではなく、美醜という抽象的なものだから、完全には確定されることがないし、ロードバイクの最速がAやA'でも、アートの最高峰はAにもZにもなり得る。同じものの異なる相として。


このアートの世界の一択は非数学的なモチーフ(美の核心)で、誰もがそれを異なる描き方で描写する。この核心を可視化して初めて本来の自由、無制約の対義語としての自由が成立する訳で、その未満の領域の自由は『アトランダムな迷い』に過ぎないのだ。


ちなみにその可視化したものの解像度と描写の最高峰は必ずしも一致しないし、それは最高峰のコーディングをできる人が最高峰のサイトを作るとは限らないのと同じことだ。でも解像度を稼ぐに越したことはないし、その為に僕が言えるのは、とことん遊ぶべしということなのだ。


ちょっと話が飛んだように感じるかもしれないが、人間の生きる動機の最深たるものは『夢』だ。今ある境遇それ以上の世界を求める夢見は、留まることを知らない。しかしこれが『あるがまま』ではなく強迫観念めいたものになると、只のコンプレックスにしかならない。


それはもの凄く狭いんだけど、昔つぶやいた『自分以外の全ての他者にとって運動でしかない要素が自動化されているもの』がその人の純化された『エロス』であり、これは『自動的代謝−生理的代謝=当人の個人的代謝−万人の個人的代謝=当人のエロス』として表される。


そうやって表されたエロスをあるがままに解放する――それが僕の『夢のイメージ』で、それができてくると今度はそれ以前の一切を超える『癖』ができる。即ち『力』だ。僕が昔から何度か言っている『能力の上積み式』もここに繋がるし、あるがままであることが最高の力なのだ。


そしてその最終的な帰結先として『愛』があり、今ある境遇の全肯定――言い換えれば楽園の前倒し――に辿り着く。これも昔から言ってるけど、夢というのは本質的には楽園の夢見だから、前倒しされたそれが終着駅なのは当然のことで、これらが『あるがままであることの三種の神器』に他ならないのだ。


根底に夢があり、それが力になり、愛をその帰結とする。これらのどこを取っても強迫観念はコンプレックスになるし、その全てがあるがままであるべきで、それが僕が言う「遊ぶべし!」の本質であり、「君だけが君を楽しめる!」の本意であり、自由とはその後付けの表現に過ぎないのだ。


それ以上の世界を求めて、それがあるがままであるならば、それが『夢』だ。それ以前の一切を超えて、それがあるがままであるならば、それが『力』だ。それ以外の全てを忘れて、それがあるがままであるならば、それが『愛』だ。人のあるがままはかくも美しく、そこにはあるべき姿など何もないのだ。