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THINK ABOUT SOMETHING.

学術的オリンピックの夢の跡

何かを食べた時に口に食べかすが付いて、それを周りの人間が指摘する。言われた通りにおしぼりでそこを拭いても、相手の映像と自分の想像にギャップがあるから、中々拭けない状態が続く。今日はそういうことを考えてみた。


この時一番手っ取り早いのは、鏡を見ることだ。鏡の指し示す映像は元の世界とほぼズレることがないし、その後の一挙手一投足もほぼ完全に同期される。言葉だと中々そうはいかないし、そこにロジックの限界は確かにある。


でもこの場合の言葉は『映像の翻訳』であり、翻訳の参照元は映像であり、鏡は偶々それと相性が良かったに過ぎない。これが精神的事項になってくると、鏡は推理小説の断片のようなものになり、それ自体を直接指し示すことができない。即ち『精神の比喩』以上のものにはならない訳だ。


そこには参照元から離れれば離れるほど抽象的に、近づけば近づくほど具体的になる仕組みがあるけど、映像に対しては鏡が後者に当たるのに対し、精神に対してはそういうものがそもそもない。言葉は精神に対しても翻訳に過ぎないし、解釈のブレない現象そのものの記述という意味では、鏡が一番具体的だ。


もちろん『それ以上の領域』という余地は残るけど、その先は客観的に真実が確定されてない領域だ。言わば鏡が普遍性の際の際、その先の解釈が固有性の淵の淵で、客観性の限界というのは普遍的終末まで。この普遍的終末というのは『事実そのものの最深部』のことであり、その先は神のみぞ知る領域だ。


それはフロイトユングですら攻略できなかった領域で、誰もが事実的なもののルートからやり直す訳だ。言わば『夏草や兵どもが夢の跡』の精神現象バージョンで、それはルートであると同時に過半数の墓場でもある。これは芸術もそうだし、恋愛もそうで、固有性の海には魔物が棲んでいるのだ。


科学というのは総じて普遍性の描写で、解釈というのは総じて固有性の論争だ。もちろんその波打際というのは流動的だから、固有性の論争が科学化されることもあるだろう。そうやって普遍的終末を幽かに確かに押し広げるのが、学術的オリンピックに他ならないのだ。


ちなみに恋愛とは固有性という名の抽象的な海を感覚的に泳ぐ行為に他ならない。そこでは事実か否かの審理などナンセンスであり、オリンピック的形式を無視して速やかに朧ろに愛の鏡にならざるを得ず、それができない恋愛は破綻するし、逆にそれができる恋愛は無意識の内に普遍的終末を押し広げるのだ。